huruyama blog

学びや子育てやホームスクールなどなど 古山明男さんのコラムが大好きなので ご本人の許可を頂き紹介しています。

学校教育は成果を求める

古山です。

ふと思いついたので、書き留めたくなったことです。

学校教育の最大の問題点は、いつも生徒に対して成果を求めていることだと思い
ます。

絵を描いたり、歌を歌ったり、身体を動かしたりすることまで、成果を上げるこ
とを求められる。そうじゃなくて、描きたいから描き、歌いたいから歌い、動き
たいから動くんだってば。

とうとう、道徳まで教科になってしまった。教科書まで作るとか。

先生が日々やっていることが、道徳の教材なのに。
そこにはいいことも悪いことも書いてある。

先生はいつも成果を出さなければならない、
学校はいつも成果を出さなければならない。
文科省指導要領をいかに達成したかという成果。

学校の人たちはヒラメの大群。上ばかり見ている。
ほんとうに子どもに対して責任を持っているわけではない。

それに文句をつけてもしょうがない。だって、決められた職務をこなすために、
訓練され、採用され、任命され、給料をもらっているのだから。

個人的に悪い人なんて、めったにいるわけではないのだけれどね。

もちろん、指導要領の内容は、悪くはない。
それを習得できていればいいですね、ということばかり書いてある。

でも、教える方も、教えられるほうも、大事なものを失ってしまう。


生きることそのものが、学びなんです。


夏休みですら、「思いっきり遊びましょう」と言えない学校なんて、なんかおか
しい。

夏休みと言わず、思いっきり遊びましょう。

 

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古山明男

勝手にやる算数 500円玉

遊べるものを一つ紹介します。

用意するもの

 500円玉 10枚

 料理用のはかり デジタルでも昔からの台秤でもよい。

 封筒2枚以上

前提となる知識 かけ算の7の段


1 500円玉は一個何グラムだと思う。(当てずっぽうで構わないから予測し
てもらう)

2 じゃあ、はかってごらん。(7gです)

 (秤によっては数g程度の数値は読みにくいときもある。そのときは、10枚
の重さをはかって、10で割る)


3 封筒に500円玉を何枚か見えないように入れる。
 「お年玉を500円玉でもらいました。さあ、何枚入ってるでしょうか」
 「重さをはかっていいよ」

  封筒1枚の重さもはかれるようにしておく。

4 重さをはからせる。
  500円玉の枚数を予測する。
  封筒の中を見てみる。

  「お、当たったね。すごいね」
  (最初は当たるように、2~4枚程度入れる)

  デジタル秤だと、封筒の重さを打ち消してはかる機能がついてるものもある。
  あるいは、ちゃんと封筒一枚が何gかはかって引き算してもいい。

5 繰り返す。

  7の段をよく知っていたら、遊びになる。

  実際は、4,5年生になっても、7の段があやしいのは、よくあること。そ
のときは「九九を忘れていたら、聞いてね」と言っておく。そうすると「しちろ
く、いくつ」と聞いてくるので、答えているうちに耳から覚えてくれる。

  九九を知らなかったり、うろ覚えだったら、
  7
  7+7
  7+7+7
   ....
  をやって、7の段の表を作ってもらう。
  7の段の九九を覚える。

古山

勝手にやる算数

古山です。

学校の教科としての算数が、どうしてあんなにつまらないのか。どうしてあんな
に落ちこぼれをたくさん出すのかと、不思議に思っていました。

検定教科書型の、足し算引き算、かけ算わり算などを順番にきちんと教え、きち
んと出来るようになったら次に進ませる、というやり方に問題があります。
無味乾燥なのです。あってるか間違ってるかに、こだわりすぎます。

それと、点数付けにあまりに絡め取られてしまっています。

もっと自由に柔軟にやったほうがいい。
一つ一つをきちんと詰めてなくても日常生活で言葉を覚えるように、だんだんな
じんでいけばいいです。

もっと日常性に根ざした方がいい。
計算技法から入らずに、長さを測るとか、重さを測るとかからはじめて、料理や
ら工作やらするうちに計算を覚えたほうがいいと思います。


算数教育の研究を、ライフワーク的にやっていました。
なんとかまとめたいと思っています。

Youtubeにビデオをアップしているのもそれです。

それとは別に、冒険物語の中に数量的ストーリーを埋め込んで、計算をしながら
読んでいくようなものを作っています。だんだん発表していくつもりです。皆様
に使用してどうだったかを教えていただき、よりよいものを作って行きたいと思
っています。

 

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古山明男

幸せと不幸せ

古山です。

人間の幸せと不幸せに大きく影響することに、言葉と自分の関係があります。

言葉というのは、いつもやっている一人対話のことです。それが、親切なのか、
命令的なのか、逃避的なのか、というようなことです。

けさの私だったら、目を覚まして、「あ、考えに行きたくない」というような意
思があって、鳥の声に耳を澄ませ、身体の感覚を聞き取っていました。そうする
と、とても幸せな感じがやってきます。

起きて体重計に乗った。少し減っていた。よかった。体重が増えぎみなので、医
者に気をつけろと言われている。でも、ついつい間食をしてしまう。きのうは、
甘い物食いをやらなかったから、その結果は現れていました。

こういうときに、「よかったよかった、やればできるじゃない。オレってすご
い」と自分を褒め続けるとか、このままもう5kg減らすぞとか、「よし、もう
お菓子食いはやめるぞ」と決意するとか、そういうことをしていると、この朝の
澄み切った感じを失ってしまうのです。きょうは、そこに入り込まなかった。

この世界と身体の中に、豊かなものが流れています。心配いらないのです。ほん
とはね。


決意くらいで体重がどうにもならないのは、もう、さんざん経験してます。

この、虚しく目標を掲げるというのは、学校で身につけさせられたと思います。
特に、中学高校以降です。
目的を掲げよ、さらばたどり着かん。という『学校教』の教えです。


学校のせいだけにしてはいけない。
若いとき、人並みにサラリーマン生活をやって、人並みに不幸になりました。そ
うするといろんな「ハウツー」に手を出すようになります。「こうすればよくな
るだろう」「こうすれば悪くなるのを防げる」を貯め込みました。考え方、運動、
食べ物、処世術、哲学....。自分を反省しつづけ、欠点を少なくし、長所を
伸ばす。それを守っていればきっとこの不幸を抜け出せる。

やったことはみんな、ちょっぴりは効果があるのです。でもちょっぴりだけ。

とにかく、そうやってなんとかしようとしていること自体が恐怖にかられた行動
なのですから、永遠に恐怖からは逃れられない。
まあ、次から次へとよくやったものだ。

不幸になると目標を立てる。目標を立てる比較が生じてもっと不幸になる。だか
らいっそう目標にしがみつく。
それで、言葉が目標を守らせる看守みたいなものになっていく。

これが、学校に巣くっている恐怖なんだと思います。
なにか、しなければならないことの山を作って、その蔭に隠れる。

学校、怖かったなあ。

もちろん、学校の運営方法と先生たちの行動が、典型的だというだけのことで、
どんな人の心の中にもあるものです。

でも、恐怖への対応法は、煎じ詰めれば一つしかないと思うのです。
子どもが怖がっているとき、ひざの上にのせたていたり、背中をさすってやった
り、「うんうん、怖かったねえ」と声をかけたりする。

恐怖は身体の反応だから、身体を大事にしてあげる。


それがなかなか出来ないんです。ついつい、原因と対処法にこだわりすぎてしま
う。原因と対処法で解決するものも、少しはあるけれど。

でも、自分に対して「ああ、怖かったねえ」と言ってハートで自分を抱きしめて
る。これができると、エネルギーも智恵も湧いてくる。

子どもにやってあげると、子どもの智恵が湧いてきます。

そのやり方は、アートなんです。人間誰しも、自分のやり方を磨きあげていく。
このアートを身につけることが、この世界で生きていくためのもっとも大事な教
育なのだと思います。


あ、いつのまにか「幸せと不幸せ」とタイトルをつけて、少し違うほうに行って
しまった。いいんだ。けさは、インスピレーションまかせでいくんだ。


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古山明男

家族で心の底から笑う

古山です。

ホームスクールをやっていると、どうしても学校のことを意識して、学校とは違
って子どもがこんなことが出来るようになった、ということに目が行きます。

もちろん、そうなんです。いずれ、世の中で生きていくのに最低限のことはでき
てほしいし、学校では不十分なものがホームスクールで伸びてほしい。当たり前
ですよね。

でも、でも....。
そういう発想は、生きることと育つことの最も大事なところからは、ちょっと外
れた周辺のことだと思うんです。


「~ができるようになる」じゃなくて。
稼ぐ能力でもなくて、自立でもなくて、市民意識でもなくて、....

イメージでいえば、「家族で心の底から笑って生きる」ことがホームスクールだ
と思うのです。
それは「心の底から悲しむこと」であったり、「心の底から美しいと思うこと」
であったりするかもしれません。なんであっても、起こることと、生きることへ
の深い信頼のようなもの....


甥とホームスクールをやっていたとき、やはり自分の肩に力が入っていないつも
りで力が入っていた、と今になると思います。
なんか、遊ぶのも教えるのも「このくらいのことは、やってあげなきゃ」意識が
脱けないままでね。

そうじゃない、なけなしの時間は、カミシモを脱ぎ捨てて取っ組み合いをしたり、
おいしいモノを作って食べるのに使うべきだった。

というようなこと、後悔せずに想いだすことができるトシにもなりました。

思い起こすと、楽しいこともいっぱいありました。
キャッチボール、けっこうやったなあ。自分の健康にとてもよかった。

 


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古山明男

学校でなくても学べる 2

古山です。

私は、在学ホームスクーラーだった、と言いました。
学校でなくても学べる、と。

でもこの言い方は、学校中心の世界観に住んでいる人を説得したい時に使うため
のものです。
子どものときは、「学ぶ」なんていう感覚はなかったです。「遊ぶ」ということ
も知らない。そこになにかがあるから、観察し、いじり、組み立てたり、バラし
たりする。それの持っている性質と付き合い、使いこなそうとする。

そこに木があるから登り、そこにバッタがいるから突ついてみる。
描きたい絵があるから絵を描き、土管があるから隠れ家にする。
その瞬間が、それ自体として生きている。

そういうとき何をしていても、ストーリーが湧いてきます。すべては、物語世界
の一部として現れてきます。
スヌーピーのマンガで、スヌーピーが犬小屋の上に寝転がって、なにかを夢想し
ています。ときにはエースパイロットになって、飛行機を操縦しています。あれ
なんです。

私は、台所の流しの流れ口に雑巾をつめて水をため、いろんなカップやらものを
浮かべて動かしたり、沈めたりして遊ぶのがお気に入りでした。そのとき、カッ
プや弁当箱は島から島へと冒険の旅を続ける船団であったり、嵐に出会って沈ん
でしまう船であったりします。
そういう遊びをしていたら、後で「浮力」とか「比重」のようなものは、当たり
前のこととして理解できました。しかし、それはただのオマケみたいなものであ
って、大事なことは冒険の旅を続ける船団がどうなるかなのです。

それを、浮力は浮力、比重は比重として定義され、学ばされていたら、それは断
片であり知識であり、血や肉にならないのです。深い必然性を欠いている感じな
のです。
頭の中で紡いでいるストーリー、それがやがて概念の結晶を作りだし、科学にな
り、哲学になっていくのです。

ほんとうに遊べる友達というのは、そういう物語世界を共有できる友達でした。

すべてが生きていて、独自性をもっていて、その中に生きる。
そのとき、結果的には大きな能力が育っています。しかし能力などとはかけらも
意識していません。もちろん、縄跳びが何回できたか、なんてのは数えますけれ
ど、それは遊びのうちです。

学校で教えてくれるものは、なんか生命の源と切り離されていた。
もちろで、学校にはおもしろい授業もありました。学校で学んだこともたくさん
あります。でも学校は、平板で、プラスアルファがない。
そんな感じでした。

人間は『能力』のために生きているのではない。子どもは『能力』のために育つ
のではない。(もちろん、ある角度からみれば能力に見えるのですが、その角度
自体は育てる力を持っていない)
『能力』というのは、商品の値札のようなものだと思います。

古山

学校でなくても学べる 1

古山です。

私は、「学校に行かなくても学べる」と堂々と主張しています。それどころが
「学校に行かないほうが学べる」とまで主張しています。

これは、自分の体験が基になっています。

私は、小中学校は、学区の公立学校に通っていました。成績はとてもよかった。
そういうと、「よほどまじめに勉強したのでしょう」と多くの人が言う。

とんでもない。
家に帰って教科書もノートも広げたことがない。参考書や問題集など、持ってな
い。逃れようのない宿題だけやっていました。高校の受験勉強もしなかった。

内面は、学校との闘いでした。
自分の、興味、関心、好奇心の流れを、絶対に邪魔させない。
学校、先生といえども、そこには立ち入らせない。


だから、いろんなことをよく知ってた。
なんでも自分で考えることができた。
自分で確かめないと気が済まなかった。
押しつけの答えを覚えていたのではなかった。

図鑑、本、テレビなどで、もう知っていることしか、学校は教えてくれなかった。

私は在学ホームスクーラーだったと自分では思っています。
学校はツジツマを合わせていただけ、学んでいたのは家庭でだった。

教えることが重要なのではない。子どもは学ぶ力を持っている。自分の興味関心
を大事にしてくれる家族がいることが最も重要なんだ。

そういう教育方法があると伝えたくて、ホームスクールの支援をしています。

古山