huruyama blog

学びや子育てやホームスクールなどなど 古山明男さんのコラムが大好きなので ご本人の許可を頂き紹介しています。

ひらがな、漢字の練習帳紹介

古山です。

ひらがなと漢字の、すぐれた練習帳を紹介します。

「なぞらずにうまくなる 子どものひらがな練習帳」実務教育出版 1000円+税

「ぐるーん」、「ぴょん」、「しゅーっ」などと動きで示していて、子ども心
をよく知ってます。
大人のひらがな練習にもいいです。私も最近これで練習しました。

「下村式となえて書く漢字ドリル 漢字練習ノート」各学年 偕成社
500円+税
ベストセラーです。それだけのことはあります。

これまで、学校にまったく行っていない子にずいぶんと出会いました。親がま
ったく教えていない場合でも、字が読めない子がいない。これには驚きました。
いったい、どうして、文盲が生まれるのかと不思議に思います。おそらく、文盲
が生じるのは、教える教えないではなくて、字の文化がないからではないかと思
います。

しかし、書くほうはというと、個人差は大きいのですが、たいていは教えない
と書けません。読むのと書くので、脳の使いどころは全く違うようです。

字が書けることは、日常生活でも、学校に合流する場合でも、必要度が高いで
す。でも、ここで、学校と同じにひたすら練習とテストでは、ホームスクールを
やっている意味がありません。
多くの場合、子どもは漢字が書けることを面白がります。

・バツをつけない。

・練習回数はお好きなように。

くらいが最低限かと思います。
遊び心を忘れないことだと思います。漢字で、こんなふうに遊べた、というの
があったら、情報交換しましょう。

漢字 とはいえ気になる

古山です。

漢字の書き順に誤りはありません。

とはいえ、子どもが、大人が身に着けているのとは違う書き順で書いていると、
とても気になるものです。

あ、ここはこうなるはずなのに、とガクッとくるのです。

不思議ですねえ。
書き順だけでなく、日常生活の動作でも、気になるものです。考え方だと、「ふ
ん、ふん、そうか」と言っていられても、動作だと神経に直接響きます。

でも、ここで「おまえ、それ違うよ。もう一回やってごらん」なんてやっていた
ら、ロクなことになりません。

そこで、こういう道があるというのを、二つほど

○ 子どもの動作が、予期したのとは違ってガクッときたとき、そのガクッとき
た感じをよく感じ取ります。数秒程度ですみます。いいんですよ、ガクッときて。
それが相場です。よく感じ取るけれど、それ以上のことはしない。

そうしますと、新しい回路ができていきます。
それまでは、ガクッときた、こうすればいいのにとイライラッとした。時には
口出しした。それが、ガクッときた、だけのことになります。数秒で通り過ぎま
す。
これなら、自分の気持ちを押さえつけてはいないんです。
数回程度やっていると、この新しい回路が自然なものになります。ガクッとく
ること自体が、変容していきます。不思議なものです。

とはいえ、疲れているときや体調の悪い時は、イライラッに直通で行ってしま
います。そんなとき、どうぞ、ご自分を責めないでください。そんなものなんで
す。あはは、やっちゃった、でいいんです。親子関係というのは、ちょっとやそ
っとで崩れるものではないです。

○ 正そうとしてもいいです。その場合は、言葉でだけ指示しない。かならず、
よくわかるように、動作をやって見せます。ここが、親切にしどころなのです。
言葉でだけ指示・アドバイスをしていると、子どもはどうしたらいいかわからな
い、親はイライラします。

漢字 書き順だけでなく

書き順は、小学校でだけ「誤り」が生じるのです。書き順だけでなく「とめ、は
ね、はらい」もウルサイ先生がけっこういます。

ところが、漢字というのは、もともとものすごく多様でして、細かいところまで
はっきり決まっていないのです。字形すら、歴史的に変遷するし、一つに定まっ
ていません。
そのことを、文化庁が言い出しています。

文化庁文化審議会漢字小委員会は9日、漢字の手書き文字について、「はね
る」「とめる」など細かい違いで正誤はなく、多様な漢字の形が認められている
ことを説明する指針案をまとめた」(読売新聞 2016/2/10)

書き順、とめ、はね、はらい、そんなことで「間違い」を創り出さないほうがい
いです。

漢字

漢字の書き順に、誤りというものはありません。
書き順については、小学校の教室内しか問題になりません。

中学校以降は、学校でも問題になりません。まして、社会に出てからはまったく
問題になりません。
書き順を気にすることはありません。

とはいえ、書き順のある程度の自然な流れはあります。漢字練習の本は、どれも
書き順が示されています。一画一画が一つづつ増えていくように見せている漢字
練習の本を使うといいです。(字が一つしかなくて、数字で書き順を示すのでは
なく)、それをまねさせていれば、おおよそのことは身に付きます。

書き順が違ったとき、「誤り」として対応しないことです。

1 腹をくくって、書き順を一切気にしないのが一つ方法。「ふん、どう書いた
かなんか、将来のあらゆる入学試験、入社試験で問題にならない」

2 書き順を正そうとするならば、必ず自分でゆっくり書いて見せる。「こう
ね」とだけ言えばいい。否定的なことは言わない。
書き順の歴史的経過をいいますと
もともとは、書き順は、漢字習得の便宜をはかるために、教育漢字(小学校で教
える漢字)についてだけ、書き順の目安を決めたのでした。
それがいつのまにか独り歩きして、「ねばならない」になってしまい、子供たち
に無用の負担をかけています。

1958年に文科省が指導の手引きを作りました。そのときに、こう説明されていま
す。
「本書に示される筆順は、学習指導上に混乱を来たさないようにとの配慮から定
められたものであって、そのことは、ここに取りあげなかった筆順についても、
これを誤りとするものでもなく、また否定しようとするものでもない。
— 「筆順指導の手びき」(1958年(昭和33年))「1.本書のねらい」より

このように、書き順は一つではない。他の書き順も誤りではない、とされている
のです。

子どもは愛のあるところで育てる

古山です。

9月8日(木)のアロマスプーンの会合、午後の科学遊びの会にご参加の方、あり
がとうございました。
私が話したことのまとめを作りますが、とりあえずのことを。
実は、会合の翌日、翌々日と別な用件があって動き回ったもので、いま体力と気
力がありません。そこに、「~をやらなければ」で動こうとしても、身体と感情
がついてきません。

そんなとき、あるがままよ、と、身体に感じられること、周囲の物音、うつろう
気分をそのままに感じています。とにかく、こうなんだから、こうなのよ。

そうすると、いつのまにやら動き出して何かの仕事をチョコチョコこなしていま
す。でもじきに、疲れや取り越し苦労が沸いてくる。そうしたらまた、座り込ん
で今あるものだけを感じている。いつのまにか、また、決意なしに動けています。

自分のあるがままに意識を向けてもらうって、ありがたいですねえ。自然にエネ
ルギーが満ちてきます。決意によらないエネルギーというものがあります。

子どもが活動するときも、このエネルギーを使っています。

愛って、あるがままを認めること。

人は、愛してくれる人のところにやってきて、愛してくれる人のいうことを聞く。

子どもは愛のあるところで育てる。

生活の中の算数 数える

古山です。
算数の基本は数えることです。算数というのは数える技術だ、と言ってもいいく
らいです。

「いち、に、さん、し....」と数えることは、生活の中で自然にやっている
ものです。子どもといっしょに数えて楽しいものがたくさんあります。数えてお
もしろいものをいくつか。

私の場合は、私が鉄道列車を見ることが好きだったので、父がよく自転車に乗せ
てくれて、踏切に行って列車が通るのを見ていました。電車は8両で、じきに数
える楽しみがなくなりました。でも当時は、貨物列車がよく走っていました。貨
物列車の長さは、そのたびに違います。父といっしょに、「いち、にい、さん、
しい....」と数えていました。やはり、長い列車に出会うと、得をしたよう
な気分になります。
いまは、貨物列車は滅多に走っていませんが、あちこちに出かけたときに、そこ
の列車が何両編成か数えているのも楽しいです。

いまだと、ツクツクボウシが鳴いています。ツクツクボウシは「ジーー」ではじ
まり、「オーシンツクツク」と「イーオース」をそれぞれ繰り返します。
この「オーシンツクツク」の回数と、「イーオース」の回数を数えているとおも
しろいんです。なかには、悠然と鳴き始めて「オーシンツクツク」を二十数回、
「イーオース」を五回、なんてのがいたりしました。そんなのに出会うと、「す
ごい。立派」なんて言いたくなります。

マンションが、何階建か。
普通のビルは、何階建か数えにくいのが多いのですが、マンションは数えやすい
です。

などなど。

「へえ、おもしろい」、「そうなのか」ということを、お子さんといっしょに共
有するのは楽しいです。、

決められたことを学ぶのではなく

現代社会で自由に生きるための力は、決められたことを多量に学び蓄積すること
なのでしょうか。

明らかに違います。

小中高の学校が教えていることは、さまざま学問の基礎的な知識です。それは、
子供たちが自由に生きるための不可欠な知識・技能である、と正当化されてきま
した。
しかし、生活に不可欠のものであるならば、生活の中で身に付くものです。
学校で教えていることは、実際は産業社会での人材選抜のツールとして利用され
てきました。

学校で教えることは、もし競争で生き残れば、高い収入と地位に結びつくもので
はあります。そして、もし自発的に生きる力が残っていれば、自由に生きるため
の道具になるものではあります。

しかし、競争に生き残るものは少なく、自発的に生きる力を残しているものは、
もっと少ないのです。小中高と進むうちに、多くの子供たちは、自分が何をした
いのか、わからなくなってしまいます。自分のやりたいことを見失ったところに、
虚栄、落ち込み、嫉妬など、あらゆる寄生虫がとりつきます。

子供たちが必要としているのは、衣食住を支えてもらって自分の仕事に取り組め
るようにしてもらうことです。子供たちの仕事というのは、それは自分の外に、
あるいは内に現れるものと直面し続けることです。それは、全身全霊をあげての
取り組みを必要としているものなのです。

そういう子供たちを援助するのに必要なことは、決して高度な知識を必要とする
ものではありません。そうではなく、私たち自身が何かに意欲を持ったとき、ど
うしてほしかったか。自分が何かに失敗したときに、どう対応してほしかったか。
そのような、当たり前の感受性なのです。