huruyama blog

学びや子育てやホームスクールなどなど 古山明男さんのコラムが大好きなので ご本人の許可を頂き紹介しています。

生活の中の算数 温度

古山です。

生活の中でできる算数を、一つづつ紹介していきます。いずれも、遊びながらや
っていきます。でも最終的には、小学校の算数の体系に匹敵できるものになりま
す。
順番にこだわらず、紹介していきます。やれるものをやってみてください。結果
をシェアして、みんなで工夫していければと思います。

コツは、モノを使うことです。
文字や記号だけでやっていると、行き詰まりやすいです。

[気温]
お宅にある温度計を活用します。アナログでもデジタルでも、なんでもいいで
す。
きょうは暑いとか寒いとか言うときに、温度計を見て、「〇〇度だ」と言うよ
うにします。
慣れたら、子どもと「今、何度だろう」とあてっこをします。
「昨日より何度高い、低い」というような計算も、時折口にしているといいで
す。 子どもが真似します。

[食べ物]
アルコールや水銀の温度計を使います。デジタルでもいいです。
お茶やコーヒーなど温かいもので、「あっちっち」で飲めないのは何度くらい
か、というのを計ります。子どもは大人より猫舌です。お母さんと比べてどのく
らい違うでしょうか。
暑くて持てない茶碗の中のお湯は、何度くらいでしょうか。
冷たくておいしい飲み物は何度くらい?

アイスクリームは何度?(カップ型のアイスクリームに穴を掘って温度計を埋
めると計りやすい)

そのほか、「あれは何度だろう」と、計ってみます。
感覚を使いこなせるようになることは、子どもが大好きです。

生活の中で見つける算数

古山です。

学校の算数は、硬すぎるし、おいしくない。
もっと、親しみやすく美しいものにできるのに、と思っています。

アロマスプーンのMLとホームページを借りて、生活の中での発見と工夫である
ような算数を作り出そうと思っています。皆様のご協力をいただければありがた
いです。

長年私塾をやっていまして、子どもたちがどのように落ちこぼれるか、目の当り
にしてきました。子どもたちのせいではないです。
学校の算数は、次々と飛ばなければならないハードルのようなものとして構成さ
れています。最近の教科書は、きれいな絵がたくさんあって、見た目はいいです。
でも、本体は石でできています。

親が子に教えると親子げんかになりやすいのですが、そのときは、算数を教えて
いることが多い。

これは、学校で教える算数の体系のほうに原因があります。算数を、規則とその
実行に要約しているためです。「なぜ、どうして」を子どもに伝えるのが、非常
に難しいのです。

「くもん」とか「らくだ」とか、学校外の算数の体系もあります。それぞれに工
夫があり、お金をとって経営が成り立つだけのことはあります。でも、もとの体
系は、学校の算数です。根は同じ。

同じようなのがベネッセが送ってくる算数教材。けっきょく、反復練習のやらせ
方の味付けを工夫しているだけ。せっかくお金を払ったのにね。

マンガも、ロクなのがない。いちばんマンガにしなければいけないところが、か
み砕いてない。数式がいきなり出てきて、博士が現れて説明してる。
(先日紹介した「おばけ学園」は、出色のできばえです。大事なところをマンガ
にしている)
どういう新しい体系を作りたいかというと、算数をやるというのは、次のような
ことをすることだとして、子どもといっしょにやっていくのです。

〇 数える

〇 まとまりを作って数える

〇 長さをはかる。

〇 重さをはかる。

〇 水の量をはかる

〇 みんなで同じにわける

〇 時間をはかる

〇 面積をはかる

〇 体積をはかる

〇 はんぱな量をあらわす(小数、分数)

〇 速さをあらわす

〇 平均を知る
いずれも、生活の中にあって、私たちが使いこなしているものです。
何気なく使っているものが、じつは人類の知恵の結晶であることがわかります。
それを、子どもと一緒に見つけ、使いこなし、伝えあう。あるいは遊びのタネに
していくことができます。

もちろん、学校の教科書でも、くもんでも、ちゃかちゃかとこなす子どもたちは
います。それはそれで、けっこうなことです。でも、こういう生活算数のほうが、
おもしろいし、深いところで身に着きます。

学校の算数は、筆算が的確にできるようにすることに、膨大なエネルギーを費や
してしまいます。でも、かえって落ちこぼれをたくさん作っています。
家庭でやる算数は、意味さえわかったら、あとは電卓を使ってしまえばよい。筆
算はオプションです。

それぞれの詳しいこと、まとめていきます。あまりダラダラやってもいいものが
出来ないので、年内くらいには、大筋は作ってしまおうと思っています。

生きることは学ぶこと

古山です。

雨音がします。エアコンと扇風機の風音、そして涼風。

ちょっと考え事をしていた。そうしたら小さな悲しみがやってきた。じきに消え
ていった。

いつも「これは良い、あれは悪い」と言っているものが、結論に走るのをやめて
いる。いまは、注意力のオーラみたいなものになって、身体の内外に広がってく
れている。そうしたら、意識の流れが、いちいち検問にひっかからずに、流れて
いく。
外に起こっていることも、身体の中に起こっていることも。

なにやら、美しいものがふうっと感じられた。通り過ぎた。心にあったの? 空
気の中にあったの? わからない。

いま、こんな感じなんです。これは子どものときに生きていた世界そのものです。
子ども時代にワープしたような気分です。次から次へと、意味に満ちたものがや
ってくる。それは虫や空き缶のような実際の事物であることもあります。気分、
感情であることもあります。
それと共に流れ、流され、匂いを嗅ぎ、手に取り、いじり...
人を相手だったら、ともに戯れる。
それが生きることであり、学ぶこと。

知恵のうち半分は、身体の中に現れてくるものへの感受性です。子どもだったら、
身体が自然に動きます。歌ったり踊ったりします。素晴らしい、興味深いと感じ
るものを、絵に描きたくなります。

学ばないときは、恐怖があるため。
身体が緊張し、目に見えない自動シャッターが耳を閉ざす。
一つの考えにしがみつく。
それは頭が悪いと思われているけど、そうじゃない。恐怖です。

いま、台風の影響の雨で、家の中に雨漏りがしていました。あれ、どこから、ど
うして。修理したらいくらくらいかかるかな。
そういうことに対処し、探ることを教えてくれるのが学校でしょう。
いつのまにか、出席すること、騒がずに椅子に座っていることが教育になってし
まった。
学びの種なら、いつでも、どこにでも、いくらでもあるのに。

大好き

古山です。

ホームスクールをするのに、たいして条件はいらないのですが、このことだけは
どうしても必要だ、ということがあります。
それは、親子の仲が良いことです。

もっと具体的に言うと、親子でふだん「好きだよ」のキャッチボールをしていて、
それが楽しいことです。
ちょっとした声かけ、ハグ、くすぐりっこ、追いかけ合い、プレゼントのし合い、
なにかといえば一緒に歌いだす、....そのようないろいろなこと。できるこ
となら、「〇〇ちゃん、大好き」「おかあさん大好き」と言葉にできること。

ご夫婦のラブラブの時期と似ています。
似ていますが、夫婦と違って、親子の場合は、もっと長く続きます。

これには、生物的な基盤があります。人間の場合、養育期間が非常に長いです。
養育の労苦に見合う喜びがなければ、養育放棄が頻発するでしょう。そのため、
子どもの側から「おかあさん大好き」「おとうさん大好き」のサインが本能的に
出るようになっています。
なついてくる子どもの笑顔一つで、一日の労苦が癒されたというような経験は、
誰でもお持ちだと思います。

ある程度大きくなると「おかあさん大好き」を言い出せない子もいます。でも、
見ていればわかります。親にラブコールを出していない子どもはいません。

男女の場合だと、「ああ言っているけど、本心はどうなのか?」の疑念が頭をも
たげるものです。そこからヒビが入ってくるものです。
ところが、子どもの場合は、本心はぜったいに間違いない。本心は「おかあさん
大好き」「お父さん大好き」なのです。顔はふくれっ面をしているかもしれない、
口は憎まれ口をいうかもしれない、でも子どもの場合は、「ああ言っているけど、
本心は間違いない」なのです。

「でも、私は愛情表現のできない親に育てられてしまって...」
「自分のトラウマが....」
とおっしゃるかもしれない。でも、関係ない、関係ない。

あなたに問題があったとしても、子どものほうはお母さん大好きのメッセージを
出してくるから、楽なものです。ちょっと反応していればいいんです。

ある養護施設の園長さんが言っていました。「ここにいる子どもたちは、親に見
捨てられた子どもたちなのです。知らない人たちは、子どもが父母を恨んでいる
と思うかもしれません。でも、そうではないんですよ。子どもたちはね、父恋し、
母恋しの一心なんです」

やる自分とやらされる自分

古山です。

現在の学校教育の最大の問題点は、人間を「やらせる自分」と「やらさせる自
分」に分裂させてしまうことだと思います。これは、いつも葛藤を抱えた状態で
生きることです。

この分裂をかかえていると、「プレッシャーがかからないとやらない」、「人に
言われないとやらない」のが普通の状態になります。
ほんとうの充足感というものがなく、自発的なものが細くなります。

この分裂があると「あるべき自分」がいつもあり、それと表裏一体の関係で「克
服すべき自分」があります。いつも、自分や他人に「ダメなやつ」を見つけてい
ないと生きていけなくなります。

「頭ではわかっているのだけれど...」
これは、頭にしか働きかけない教育を、さんざん受けさせられたためです。
身体、感覚、感情とどう調和させるかは、教育されなかった。というより、むし
ろ調和を壊す教育が行われています。

つまらないことを無理してやらせるのが恒常化すると、人間の大事なところが壊
れます。正邪善悪、苦痛と喜びがわからなくなってしまうのです。

私自身、大学生のときに、「やらせる自分」と「やらされる自分」の分裂で身動
きがとれなくなりました。明らかに受験勉強のせいでした。なんとか、心のまま
に生きることができるようになりたいと思いました。

それから、40年以上かかりました。さいきん、やっとなんとかなったように思い
ます。
急に悟ったとか、天使が現れたとか、そういうことはありませんでした。一つ一
つの感覚や感情を、一つ一つ確かめ、これは本来どういうものであるかと生き抜
いていく。一つの感覚と調和するのが終わると、また次の未知のものが現れてく
る、それと付き合う。果てがないようだけど、見極めがつくと、澄んだ感じがや
ってきますし、「愛」としかいいようのないものが流れ込んできます。

でも、これは、子どもが成長するプロセスそのものではありませんか。毎日が、
自分の感覚と感情を生き抜くという仕事なのです。目の前に自転車が現れては、
その自転車が「乗れるかい」と差し招くのです。あるいは「この恐怖をどう生き
抜く?」と問いかけられるのです。

こどもだけではなく、大人でも同じです。
生きることは学ぶことです。

私たちは、あまりよろしくない教育を受けていて、「頭ではわかっているのだけ
れど...」になるのが普通です。
そこから、愛と喜びで生きられるようになるため、多くの道が編み出されていま
す。どの道も、それなりにハードです。
でも、誰にでもできる容易な道があります。それは、子どもと深く関わって生き
ることです。もちろん、子どもを理解するのは簡単なことではありません。でも
何よりも、子どもは親のことが大好きなのです。かまってほしいし、理解してほ
しいし、愛を投げかけてきます。それに愛で応えるというのは、自然にできるこ
とです。この愛のキャッチボールの中で生きていると、いろんなものが、その本
来の姿を現してきます。

公共学校にしみついた固定観念

日本の公立小中学校にしみついた、固定観念があります。

宿題、出席、家庭学習

です。

どれも、なにがなんでも子どもに刷り込もうとするのです。

宿題にどれだけの意味があるのでしょうか。学校を一歩出たら、子どもは別な気
分になっています。そこからは、興味と情熱の世界なのです。それを護り育てる
ことが、教育としてより重要ではないでしょうか。そこに宿題を持ち込んで押し
殺そうとするから、点数しか取れない人間を育ててしまうのではないか。

宿題は、学校の時間内では練習が十分でないものを、補おうとするものです。で
も、必要な練習であるならば、学校の時間内でやるべきです。学校にいれば、子
どもは教科学習的な気分になっていますし、わからなかったときに先生や友達の
援助を受けられます。
宿題を出すということは、学校がいかに効率の悪いことをやっているかの証明で
す。

教師が上手に示し、子どもに十分な理解が生まれ、練習問題をやって「できた」
と実感する。授業が終わったときは、ホクホクした気分になっている。それはワ
ンセットです。それをやってくれるのが、学校というものでしょう。

高校生年齢くらいから、そうとうに独学能力がついています。また、発達させる
べきものの中心が知的なものであってもかまわない。しかし、小中学生には、原
則として宿題を出すべきではないです。別に宿題として出さなくても、学校で何
かが身につくて「学校でこんなこと習ったよ」と家でやって見せたがるものです。

でも、宿題を出す本当の目的は、学習そのものではありません。「家庭で学習習
慣をつけさせるため」です。

子どもの学習意欲を調べようとすると、お決まりなのが「家庭で何時間勉強して
いるか」です。おかしな話ではないですか。「会社の業績がどれだけ伸びるかは、
社員が仕事をどれだけ家庭に持ち帰るかだ」と言っているのと同じです。
学校は学校ですることで勝負してほしい。家庭学習に依存する学校そのものがお
かしい。

私が私塾で子どもたちをみていたところでは、家庭学習の時間と、成績は関係あ
りません。成績と関係あるのは、興味・好奇心の強さ、人を信頼していること、
道徳的な能力(教条的ではない)です。

家庭学習に依存しなければならないような学校に、行かせる価値がどれだけある
のか。授業がつまらないからそうなっているのです。

出席至上主義については、また書きます。

義務教育について

古山です。

「子どもが学校にいく義務は、憲法で決まっている」
そう信じている人は多いです。
これは、間違いです。

憲法は、保護者に
「教育を受けさせる義務」があると言っているだけなのです。

だから、子どもに学校が合わなかったら、保護者が自分で教育を手配する義務が
生じます。

「うちの子は学校ではよく学ぶことができません。でも憲法によって、私は子ど
もを教育する義務を負っています。ですから、私は自分で教育を手配します」
というのが、自然な憲法解釈なのです。

法律のレベルでは、「学校教育法」という法律が、すべての子どもに学校に就学
することを決めています。
この法律は1947年の制定です。当時の時代状況しか反映していなくて、学校に合
わない子どもが生じるとか、別な教育方法があるとかいうことをまったく想定し
ていません。それで今、いろんな不都合が起こっています。

でも、憲法は法律に優先します。

憲法だけでなく、国際人権条約も、親に教育を選ぶ権利があるとはっきり言って
います。教育基本法にも、学校に行けなどとは、一言も書いてありません。

自分の子どもに、「これが最善だ」と思う教育をするのは、親の崇高なる義務と
言ってもよいものです。それが義務教育なのです。