huruyama blog

学びや子育てやホームスクールなどなど 古山明男さんのコラムが大好きなので ご本人の許可を頂き紹介しています。

子供の探求をサポートすること

古山です。

8月26日、27日に東京有明で行われた「未来の先生展」に行って来ました。

自分たちで何かやろうとしている人たちを、片っ端から呼び集めているので、熱
気のある独特の世界ができていました。広々した野原に、たくさんの野の花が咲
いているようなものです。教員の免許更新講習では、ぜったいに現れてこない熱
気。

教育というのは子どもの探求をサポートすることなんだ、教育の主人公は子ども
なんだということが、当たり前の基盤になっていました。

19の教室で同時にいろんなワークショップやプレゼンテーションが行われ、それ
ぞれの教室が90分講座を一日4コマ、総計135コマという大規模なものでした。
2千人くらい集まっていたのではないかと思います。
ホームスクールの講座も一つありました。

全体のオーガナイザーをやっていた方が、オルタナティブ教育にも熱心な方で、
シュタイナー、サドベリー、モンテッソーリなどいろいろ参加していました。み
んな入り乱れてやっているのがおもしろかったです。
学校だろうが、学校外だろうが、子どもにとって良ければそれでいいんです。

「黒板とチョークの授業を終わらせよう」が、共通した思いだったと思います。


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古山明男

生きていくのに大事なこと

古山です。

子どもに、生きていくのに最も役に立つことを手渡したいと、私たちは願ってい
ます。この子たちに、ほんとうに幸せになってほしいのです。

では、何を手渡しましょうか。
財産を渡しても、賢く使えるかどうかはわかりません。
学歴や資格も、葛藤の多い人生になることから防いではくれない。

生きていくのにもっとも大事なことは、恐怖にどう対処していくかのアートを伝
えることだと思います。
アートというのは芸術という意味もありますし、技法・技術という意味もありま
す。


私自身、したくもないことをいろいろ仕出かしました。それは、たいていは怖さ
紛れです。

自分が誰の言うことにも耳を傾けなくなるのは、怖いからです。

見栄を張るのは、怖いからです。

相手を攻撃するのは、怖いからです。

自分に自惚れるのは、怖いからです。

何かに耽溺するのは、怖いからです。

教条にしがみつくのは、怖いからです。


どうしてそんなに怖いの?

怖かったときに、「ああ、怖かったねえ」と言って背中を撫でてくれる人がいな
かったから。

自分で自分を「ああ、怖かったねえ」とハグできないから。

それで、いろんなカスを掴んでしまった。
耳を澄ませれば、この世界はたくさんのことを語りかけているのに。

親たちも先生たちも、「~すればいいのに」と「もっと気をつけなさい」しか持
っていなかった。それは、大人たちが自分の恐怖に直面しないで済む手段だった。

怖さを認識できるところから、明晰さが生まれます。
怖いまんまでいい。
自分の中の子供が怖がっていることを慈しめるのが、大人というものです。

恐怖をどう生きていくかのアートがあれば、いろんな能力は、おまけのようにつ
いてきます。恐怖がなくなれば、意欲は自然に出てきます。

現代の主流の教育観、つまり、人材を育てることと稼げるようになることは、大
事なポイントをはずしたままだと思うのです。


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古山明男

学校教育は成果を求める

古山です。

ふと思いついたので、書き留めたくなったことです。

学校教育の最大の問題点は、いつも生徒に対して成果を求めていることだと思い
ます。

絵を描いたり、歌を歌ったり、身体を動かしたりすることまで、成果を上げるこ
とを求められる。そうじゃなくて、描きたいから描き、歌いたいから歌い、動き
たいから動くんだってば。

とうとう、道徳まで教科になってしまった。教科書まで作るとか。

先生が日々やっていることが、道徳の教材なのに。
そこにはいいことも悪いことも書いてある。

先生はいつも成果を出さなければならない、
学校はいつも成果を出さなければならない。
文科省指導要領をいかに達成したかという成果。

学校の人たちはヒラメの大群。上ばかり見ている。
ほんとうに子どもに対して責任を持っているわけではない。

それに文句をつけてもしょうがない。だって、決められた職務をこなすために、
訓練され、採用され、任命され、給料をもらっているのだから。

個人的に悪い人なんて、めったにいるわけではないのだけれどね。

もちろん、指導要領の内容は、悪くはない。
それを習得できていればいいですね、ということばかり書いてある。

でも、教える方も、教えられるほうも、大事なものを失ってしまう。


生きることそのものが、学びなんです。


夏休みですら、「思いっきり遊びましょう」と言えない学校なんて、なんかおか
しい。

夏休みと言わず、思いっきり遊びましょう。

 

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古山明男

勝手にやる算数 500円玉

遊べるものを一つ紹介します。

用意するもの

 500円玉 10枚

 料理用のはかり デジタルでも昔からの台秤でもよい。

 封筒2枚以上

前提となる知識 かけ算の7の段


1 500円玉は一個何グラムだと思う。(当てずっぽうで構わないから予測し
てもらう)

2 じゃあ、はかってごらん。(7gです)

 (秤によっては数g程度の数値は読みにくいときもある。そのときは、10枚
の重さをはかって、10で割る)


3 封筒に500円玉を何枚か見えないように入れる。
 「お年玉を500円玉でもらいました。さあ、何枚入ってるでしょうか」
 「重さをはかっていいよ」

  封筒1枚の重さもはかれるようにしておく。

4 重さをはからせる。
  500円玉の枚数を予測する。
  封筒の中を見てみる。

  「お、当たったね。すごいね」
  (最初は当たるように、2~4枚程度入れる)

  デジタル秤だと、封筒の重さを打ち消してはかる機能がついてるものもある。
  あるいは、ちゃんと封筒一枚が何gかはかって引き算してもいい。

5 繰り返す。

  7の段をよく知っていたら、遊びになる。

  実際は、4,5年生になっても、7の段があやしいのは、よくあること。そ
のときは「九九を忘れていたら、聞いてね」と言っておく。そうすると「しちろ
く、いくつ」と聞いてくるので、答えているうちに耳から覚えてくれる。

  九九を知らなかったり、うろ覚えだったら、
  7
  7+7
  7+7+7
   ....
  をやって、7の段の表を作ってもらう。
  7の段の九九を覚える。

古山

勝手にやる算数

古山です。

学校の教科としての算数が、どうしてあんなにつまらないのか。どうしてあんな
に落ちこぼれをたくさん出すのかと、不思議に思っていました。

検定教科書型の、足し算引き算、かけ算わり算などを順番にきちんと教え、きち
んと出来るようになったら次に進ませる、というやり方に問題があります。
無味乾燥なのです。あってるか間違ってるかに、こだわりすぎます。

それと、点数付けにあまりに絡め取られてしまっています。

もっと自由に柔軟にやったほうがいい。
一つ一つをきちんと詰めてなくても日常生活で言葉を覚えるように、だんだんな
じんでいけばいいです。

もっと日常性に根ざした方がいい。
計算技法から入らずに、長さを測るとか、重さを測るとかからはじめて、料理や
ら工作やらするうちに計算を覚えたほうがいいと思います。


算数教育の研究を、ライフワーク的にやっていました。
なんとかまとめたいと思っています。

Youtubeにビデオをアップしているのもそれです。

それとは別に、冒険物語の中に数量的ストーリーを埋め込んで、計算をしながら
読んでいくようなものを作っています。だんだん発表していくつもりです。皆様
に使用してどうだったかを教えていただき、よりよいものを作って行きたいと思
っています。

 

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古山明男

幸せと不幸せ

古山です。

人間の幸せと不幸せに大きく影響することに、言葉と自分の関係があります。

言葉というのは、いつもやっている一人対話のことです。それが、親切なのか、
命令的なのか、逃避的なのか、というようなことです。

けさの私だったら、目を覚まして、「あ、考えに行きたくない」というような意
思があって、鳥の声に耳を澄ませ、身体の感覚を聞き取っていました。そうする
と、とても幸せな感じがやってきます。

起きて体重計に乗った。少し減っていた。よかった。体重が増えぎみなので、医
者に気をつけろと言われている。でも、ついつい間食をしてしまう。きのうは、
甘い物食いをやらなかったから、その結果は現れていました。

こういうときに、「よかったよかった、やればできるじゃない。オレってすご
い」と自分を褒め続けるとか、このままもう5kg減らすぞとか、「よし、もう
お菓子食いはやめるぞ」と決意するとか、そういうことをしていると、この朝の
澄み切った感じを失ってしまうのです。きょうは、そこに入り込まなかった。

この世界と身体の中に、豊かなものが流れています。心配いらないのです。ほん
とはね。


決意くらいで体重がどうにもならないのは、もう、さんざん経験してます。

この、虚しく目標を掲げるというのは、学校で身につけさせられたと思います。
特に、中学高校以降です。
目的を掲げよ、さらばたどり着かん。という『学校教』の教えです。


学校のせいだけにしてはいけない。
若いとき、人並みにサラリーマン生活をやって、人並みに不幸になりました。そ
うするといろんな「ハウツー」に手を出すようになります。「こうすればよくな
るだろう」「こうすれば悪くなるのを防げる」を貯め込みました。考え方、運動、
食べ物、処世術、哲学....。自分を反省しつづけ、欠点を少なくし、長所を
伸ばす。それを守っていればきっとこの不幸を抜け出せる。

やったことはみんな、ちょっぴりは効果があるのです。でもちょっぴりだけ。

とにかく、そうやってなんとかしようとしていること自体が恐怖にかられた行動
なのですから、永遠に恐怖からは逃れられない。
まあ、次から次へとよくやったものだ。

不幸になると目標を立てる。目標を立てる比較が生じてもっと不幸になる。だか
らいっそう目標にしがみつく。
それで、言葉が目標を守らせる看守みたいなものになっていく。

これが、学校に巣くっている恐怖なんだと思います。
なにか、しなければならないことの山を作って、その蔭に隠れる。

学校、怖かったなあ。

もちろん、学校の運営方法と先生たちの行動が、典型的だというだけのことで、
どんな人の心の中にもあるものです。

でも、恐怖への対応法は、煎じ詰めれば一つしかないと思うのです。
子どもが怖がっているとき、ひざの上にのせたていたり、背中をさすってやった
り、「うんうん、怖かったねえ」と声をかけたりする。

恐怖は身体の反応だから、身体を大事にしてあげる。


それがなかなか出来ないんです。ついつい、原因と対処法にこだわりすぎてしま
う。原因と対処法で解決するものも、少しはあるけれど。

でも、自分に対して「ああ、怖かったねえ」と言ってハートで自分を抱きしめて
る。これができると、エネルギーも智恵も湧いてくる。

子どもにやってあげると、子どもの智恵が湧いてきます。

そのやり方は、アートなんです。人間誰しも、自分のやり方を磨きあげていく。
このアートを身につけることが、この世界で生きていくためのもっとも大事な教
育なのだと思います。


あ、いつのまにか「幸せと不幸せ」とタイトルをつけて、少し違うほうに行って
しまった。いいんだ。けさは、インスピレーションまかせでいくんだ。


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古山明男