huruyama blog

学びや子育てやホームスクールなどなど 古山明男さんのコラムが大好きなので ご本人の許可を頂き紹介しています。

幸せと不幸せ

古山です。

人間の幸せと不幸せに大きく影響することに、言葉と自分の関係があります。

言葉というのは、いつもやっている一人対話のことです。それが、親切なのか、
命令的なのか、逃避的なのか、というようなことです。

けさの私だったら、目を覚まして、「あ、考えに行きたくない」というような意
思があって、鳥の声に耳を澄ませ、身体の感覚を聞き取っていました。そうする
と、とても幸せな感じがやってきます。

起きて体重計に乗った。少し減っていた。よかった。体重が増えぎみなので、医
者に気をつけろと言われている。でも、ついつい間食をしてしまう。きのうは、
甘い物食いをやらなかったから、その結果は現れていました。

こういうときに、「よかったよかった、やればできるじゃない。オレってすご
い」と自分を褒め続けるとか、このままもう5kg減らすぞとか、「よし、もう
お菓子食いはやめるぞ」と決意するとか、そういうことをしていると、この朝の
澄み切った感じを失ってしまうのです。きょうは、そこに入り込まなかった。

この世界と身体の中に、豊かなものが流れています。心配いらないのです。ほん
とはね。


決意くらいで体重がどうにもならないのは、もう、さんざん経験してます。

この、虚しく目標を掲げるというのは、学校で身につけさせられたと思います。
特に、中学高校以降です。
目的を掲げよ、さらばたどり着かん。という『学校教』の教えです。


学校のせいだけにしてはいけない。
若いとき、人並みにサラリーマン生活をやって、人並みに不幸になりました。そ
うするといろんな「ハウツー」に手を出すようになります。「こうすればよくな
るだろう」「こうすれば悪くなるのを防げる」を貯め込みました。考え方、運動、
食べ物、処世術、哲学....。自分を反省しつづけ、欠点を少なくし、長所を
伸ばす。それを守っていればきっとこの不幸を抜け出せる。

やったことはみんな、ちょっぴりは効果があるのです。でもちょっぴりだけ。

とにかく、そうやってなんとかしようとしていること自体が恐怖にかられた行動
なのですから、永遠に恐怖からは逃れられない。
まあ、次から次へとよくやったものだ。

不幸になると目標を立てる。目標を立てる比較が生じてもっと不幸になる。だか
らいっそう目標にしがみつく。
それで、言葉が目標を守らせる看守みたいなものになっていく。

これが、学校に巣くっている恐怖なんだと思います。
なにか、しなければならないことの山を作って、その蔭に隠れる。

学校、怖かったなあ。

もちろん、学校の運営方法と先生たちの行動が、典型的だというだけのことで、
どんな人の心の中にもあるものです。

でも、恐怖への対応法は、煎じ詰めれば一つしかないと思うのです。
子どもが怖がっているとき、ひざの上にのせたていたり、背中をさすってやった
り、「うんうん、怖かったねえ」と声をかけたりする。

恐怖は身体の反応だから、身体を大事にしてあげる。


それがなかなか出来ないんです。ついつい、原因と対処法にこだわりすぎてしま
う。原因と対処法で解決するものも、少しはあるけれど。

でも、自分に対して「ああ、怖かったねえ」と言ってハートで自分を抱きしめて
る。これができると、エネルギーも智恵も湧いてくる。

子どもにやってあげると、子どもの智恵が湧いてきます。

そのやり方は、アートなんです。人間誰しも、自分のやり方を磨きあげていく。
このアートを身につけることが、この世界で生きていくためのもっとも大事な教
育なのだと思います。


あ、いつのまにか「幸せと不幸せ」とタイトルをつけて、少し違うほうに行って
しまった。いいんだ。けさは、インスピレーションまかせでいくんだ。


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古山明男

家族で心の底から笑う

古山です。

ホームスクールをやっていると、どうしても学校のことを意識して、学校とは違
って子どもがこんなことが出来るようになった、ということに目が行きます。

もちろん、そうなんです。いずれ、世の中で生きていくのに最低限のことはでき
てほしいし、学校では不十分なものがホームスクールで伸びてほしい。当たり前
ですよね。

でも、でも....。
そういう発想は、生きることと育つことの最も大事なところからは、ちょっと外
れた周辺のことだと思うんです。


「~ができるようになる」じゃなくて。
稼ぐ能力でもなくて、自立でもなくて、市民意識でもなくて、....

イメージでいえば、「家族で心の底から笑って生きる」ことがホームスクールだ
と思うのです。
それは「心の底から悲しむこと」であったり、「心の底から美しいと思うこと」
であったりするかもしれません。なんであっても、起こることと、生きることへ
の深い信頼のようなもの....


甥とホームスクールをやっていたとき、やはり自分の肩に力が入っていないつも
りで力が入っていた、と今になると思います。
なんか、遊ぶのも教えるのも「このくらいのことは、やってあげなきゃ」意識が
脱けないままでね。

そうじゃない、なけなしの時間は、カミシモを脱ぎ捨てて取っ組み合いをしたり、
おいしいモノを作って食べるのに使うべきだった。

というようなこと、後悔せずに想いだすことができるトシにもなりました。

思い起こすと、楽しいこともいっぱいありました。
キャッチボール、けっこうやったなあ。自分の健康にとてもよかった。

 


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古山明男

学校でなくても学べる 2

古山です。

私は、在学ホームスクーラーだった、と言いました。
学校でなくても学べる、と。

でもこの言い方は、学校中心の世界観に住んでいる人を説得したい時に使うため
のものです。
子どものときは、「学ぶ」なんていう感覚はなかったです。「遊ぶ」ということ
も知らない。そこになにかがあるから、観察し、いじり、組み立てたり、バラし
たりする。それの持っている性質と付き合い、使いこなそうとする。

そこに木があるから登り、そこにバッタがいるから突ついてみる。
描きたい絵があるから絵を描き、土管があるから隠れ家にする。
その瞬間が、それ自体として生きている。

そういうとき何をしていても、ストーリーが湧いてきます。すべては、物語世界
の一部として現れてきます。
スヌーピーのマンガで、スヌーピーが犬小屋の上に寝転がって、なにかを夢想し
ています。ときにはエースパイロットになって、飛行機を操縦しています。あれ
なんです。

私は、台所の流しの流れ口に雑巾をつめて水をため、いろんなカップやらものを
浮かべて動かしたり、沈めたりして遊ぶのがお気に入りでした。そのとき、カッ
プや弁当箱は島から島へと冒険の旅を続ける船団であったり、嵐に出会って沈ん
でしまう船であったりします。
そういう遊びをしていたら、後で「浮力」とか「比重」のようなものは、当たり
前のこととして理解できました。しかし、それはただのオマケみたいなものであ
って、大事なことは冒険の旅を続ける船団がどうなるかなのです。

それを、浮力は浮力、比重は比重として定義され、学ばされていたら、それは断
片であり知識であり、血や肉にならないのです。深い必然性を欠いている感じな
のです。
頭の中で紡いでいるストーリー、それがやがて概念の結晶を作りだし、科学にな
り、哲学になっていくのです。

ほんとうに遊べる友達というのは、そういう物語世界を共有できる友達でした。

すべてが生きていて、独自性をもっていて、その中に生きる。
そのとき、結果的には大きな能力が育っています。しかし能力などとはかけらも
意識していません。もちろん、縄跳びが何回できたか、なんてのは数えますけれ
ど、それは遊びのうちです。

学校で教えてくれるものは、なんか生命の源と切り離されていた。
もちろで、学校にはおもしろい授業もありました。学校で学んだこともたくさん
あります。でも学校は、平板で、プラスアルファがない。
そんな感じでした。

人間は『能力』のために生きているのではない。子どもは『能力』のために育つ
のではない。(もちろん、ある角度からみれば能力に見えるのですが、その角度
自体は育てる力を持っていない)
『能力』というのは、商品の値札のようなものだと思います。

古山

学校でなくても学べる 1

古山です。

私は、「学校に行かなくても学べる」と堂々と主張しています。それどころが
「学校に行かないほうが学べる」とまで主張しています。

これは、自分の体験が基になっています。

私は、小中学校は、学区の公立学校に通っていました。成績はとてもよかった。
そういうと、「よほどまじめに勉強したのでしょう」と多くの人が言う。

とんでもない。
家に帰って教科書もノートも広げたことがない。参考書や問題集など、持ってな
い。逃れようのない宿題だけやっていました。高校の受験勉強もしなかった。

内面は、学校との闘いでした。
自分の、興味、関心、好奇心の流れを、絶対に邪魔させない。
学校、先生といえども、そこには立ち入らせない。


だから、いろんなことをよく知ってた。
なんでも自分で考えることができた。
自分で確かめないと気が済まなかった。
押しつけの答えを覚えていたのではなかった。

図鑑、本、テレビなどで、もう知っていることしか、学校は教えてくれなかった。

私は在学ホームスクーラーだったと自分では思っています。
学校はツジツマを合わせていただけ、学んでいたのは家庭でだった。

教えることが重要なのではない。子どもは学ぶ力を持っている。自分の興味関心
を大事にしてくれる家族がいることが最も重要なんだ。

そういう教育方法があると伝えたくて、ホームスクールの支援をしています。

古山

生き物っておもしろい

古山です。

今の季節、ツバキの葉に毛虫が群れになってついていることがあります。チャド
クガの幼虫です。触ると、人間の皮膚がかぶれるので嫌われています。

昨日、うちの門のそばにあるツバキの木で、見つけた見つけた。
まだ、小さい。しめしめ。
たった葉一枚に、みんな集まっているので、簡単に一網打尽にできます。

葉の縁に、みなさんの頭を揃えてずらりの並んでいる。
よくまあ、並んだものです。
並んで、葉っぱをむしゃむしゃ食べてる。

みていると、はぐれたのが列の端にやってきて、きちんと頭をそろえて列に加わ
る。なるほどねえ、こうやって列ができるんだ。
またやってきて、並ぶ。
へええ、見ていておもしろいですねえ。

子どもの頃を想いだしました。
こういうふうに、動物や虫を見ているのが大好きだったのです。
動く様子を見ているのが、ほんとに楽しいんです。

アリが、巣の中から小さな土の塊を運び出しては置いていく。
別なアリが、どこかから、虫の死骸を引っ張ってきて巣の中に運び込む。

夕方になるとオニグモが、おしりから糸をだしながららせん状に回って、巣を張
っている。

私が幼稚園のころだと思います。ディズニーの「砂漠は生きている」という映画
が来て、親に映画館に連れて行ってもらいました。これは映画体験のなかでも生
涯最高の感動だったと、今でも思います。

砂の中に、バーッと潜ってしまうスナネズミ
パパッと動いてはピタっと止まるトカゲ。
そんな動きがおもしろくておもしろくてたまりませんでした。

あんなふうに動いたよ。
あんなふうに食べているよ。
あれ、飛んだ。
あれ、隠れた。

そんなことが、飽きずに見ていられます。
子どもに特有の能力だと思います。2歳の子でも、ダンゴムシがいたと大喜びし
て、歩く様子を眺め、つついたら丸くなるのをおもしろがっています。

大人になって、知識で生きるようになってから、このように生き物をおもしろが
れることがどれほど大事なことか実感できるようになりました。

「そういうふうに生きていること自体がおもしろい」
この感覚が大事なのです。

大人らしい大人になってしまってからだと、瞑想とかヨガとか、そんなものを使
ってやっとこせ取り戻せる感覚。


生き物全般に対して感じるものですが、特に、人間に対して「あんな人だ。あん
なふうに生きている。おもしろおい。へええええ、ほおおおお、きゃっきゃっ」

それが、他者に対する寛容と理解の基盤なのです。
あるいは、自分の中にうごめくものの観察の基盤でもあります。


子どもが生物の生きざまをおもしろがる力は、大人から支援しやすいものです。
大人が共感してくれると、子どもの中にあるものがエネルギーを持ち、ふくらん
でいくのです。
「あれがいたよ。あんなことしてるよ」と一緒になっておもしろがるだけ。

ほら、ほら、歩いているよ。

ほら、ほら、葉っぱをむしゃむしゃ食べてるよ。




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古山明男

NHKスペシャル 発達障害

古山です

21日夜のNHKスペシャルが「発達障害 ~解明される未知の世界」を放送して
いました。
そうか、そうか、と見ていました。自分の中で断片的だった知識がつながった感
じがします。

ほんとうに、解明が始まっているのだと思います。当事者の声として、身体障害
者に対するのと同様な配慮を求めていたのが、画期的です。

番組は、すでに大人になった当事者による説明を中心にして、発達障害の人たち
がどう生きているのかを取り上げていました。なるほど、ということが多かった。

発達障害の人は感覚が過敏な人がかなりいます。
物音と人の声をうまくよりわけられない。
視覚的に、まぶしくてしょうがない。
不快な臭いがたまらない。
などです。

発達障害の人が、人と話すのはたいへんな労苦。
言葉を聞き取る。その意味を理解する。対応を考える。それら一つ一つが、全力
をあげてやっとできるようなこと。


以下は私の考えです。

発達障害は、外界適応のための感覚調整がうまくいっていことが一次障害

・そのために生じる、恐怖、孤立、無力感などが二次障害

シュタイナー教育的な説明なら、エーテル体が肉体に入り込めない、あるいは
エーテル体が弱い状態。

脳科学のほうからも、有効な説明が出てくるだろう。

・おそらく、感覚の発達と調整の問題として取り組むと、改善される。心地よい
環境、愛念をもった人たち、よい香り、気持ちのよい触覚、静かで芸術的な音楽、
などなど。

・訓練して頑張らせる方向は、裏目に出る。

・こだわりの強さは、おそらく恐怖から身を守るための二次障害。

・「普通」に育てようがないので、とてつもない才能も現れやすい。


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古山明男

なぜ子どもはアニメなら入り込むのか

古山です。

「僕と魔法の言葉たち」という映画を見ました。素晴らしかったです。
自閉症の子どもが、周りの人たちとのコミュニケーションの通路を築いていくド
キュメンタリー映画です。
自分のブログで取り上げました。
http://ameblo.jp/afrym/entry-12274823327.html

この映画を見ていて思ったのが、大人たちが、子どもを諸能力の集まりとして
見ていては、子どもを教育するのが難しくなってしまうだろう、ということです。
この映画の主人公の場合、言語能力がないと思われていたら、ディズニーのア
ニメの世界に入りこんでいて、そこで生きていました。

14歳までの子どもの意識は、キャラクターとストーリーでできています。特に
9歳以前は、それだけでできていると言っていいくらいです。
だから、子どもたちは絵本やマンガなら喜んで見ますし、アニメなら見ます。

この「キャラクターとストーリーによる世界の把握」は、大人になっても、毎
晩の夢を見るときの言語として、いつも流れています。

子どもを、身体運動能力、言語能力、図形認識能力等々に分解して捉え、その
一つ一つを訓練すれば豊かな人生を送れるだろうと考えること。
各能力を子どもにでもできる簡単なものにし、各教科に割り振り、訓練するこ
と。それは、一見親切なようであって、子どもにとっては、食事を与えられずに
栄養サプリメントだけ与えられるようなものです。
学校を、諸能力一つ一つを分解して伸ばす場として構成することは、工場を単
純作業の流れ作業として構成するのに似ていて、産業社会に特有の人間観に基づ
いていたのだと思います。

子どもは、もっともっと、活動本位ですし、物事をストーリーで見ています。

能力主義を抜け出した教育が必要を創りたいと思っています。
今作っている「おっちゃんのさんすう教室」がその一つです。
文科省指導要領による算数・数学は、多くの子どもにとっては消化・吸収が難
しいものです。吸収率が非常に悪いです。下痢を起こす子もいます。
キャラクターとストーリーの中に算数を埋め込み、いろんな形で重層的に現れ
てくる中から、本質を掴み取っていく。そういうものを作って、おいしく召し上
がっていただければと思っています。

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古山明男