huruyama blog

学びや子育てやホームスクールなどなど 古山明男さんのコラムが大好きなので ご本人の許可を頂き紹介しています。

算数のシリーズ

古山です。

「おっちゃんの算数教室」シリーズを、また作ります。
今のシリーズは、私が体調が悪いときに作ったもので、自分では不満です。

「勉強しないといけないから」ではなくて、「おもしろいから」見てもらえるも
のを目指します。

今の、文科省指導要領の体系が間違っているんだ、とほんとうに思っています。
あれじゃあ、算数が難行苦行になる子が続出します。そのことを批判だけしてい
ても空しいから、「こうするんだ」というのを作りたい。

あのテロップや音楽、カメラアングルなどを作ってくれた、テレビ番組制作会社
のプロが、疲れたから休職するということになりました。「じゃあ、また僕の仕
事を手伝ってくれないか」とお願いしました。

算数・数学は深いところで、道徳性とつながっています。尊重しなければならな
い法則があります。やっていいことといけないことがあります。

それだけに、単なる丸覚えや、褒めたり叱ったりでやらせることにしたくない。

ところが、算数ときたら、子どもがどのように学ぶか、まるでめちゃくちゃなの
です。

教えなくても、日常生活の中でわかちゃってる子もいます。
いくら教えてもわからない子もいます。
学ぶのに適した年齢も、まったくまちまちです。早い子は4,5歳、
遅い子は10~11歳です。

市販の教材でおすすめできるものはそこそこあるのですが、みんな向き不向きが
あります。万人向けというのがありません。
自分で作りたくなりました。


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古山明男

ホームスクールって

 

古山です。

MLに新しく参加された方に、ホームスクールってこんなものです、とメールを
書いたのですが、誰に読んでもらってもいいものなので、こちらにも送ります。

 


学校は、子どもに無理をさせるところです。無味乾燥さに耐えさせる訓練をして、
教育をしたと思い込んでいるのです。とんでもない。そんなことは、大人になっ
てからでいいのです。子どもには子どもの、かけがえのない子ども時代がありま
す。

もちろん、学校のすべてが悪いわけではありません。楽しいときもあります。い
い先生もいます。友達もできやすいです。

しかし、学校に行かなければまともな人間に育たない、という考えは、徴兵制の
ような義務教育を生き延びるしかなかった人たちのための、おしゃぶり飴のよう
なものです。あれはムダではなかった、どうしても必要なものだったと信じてい
たいのです。


学校は、子どもが喜んで行っているならそれでいいのですが、無理させてまで行
かせるところではないと思います。
さらに、ご家庭が子どもの理解が深くて、学校以上のことができるならば、学校
を離れてよいのです。
この学校以上というのは、授業をする能力のことではなく、子どもと気持ちが通
じていて楽しく暮らせることです。

教えなければ子どもは何もできるようにならない、というのも、学校の神話です。
言われたことに従わせては評定するだけの学校教育を長く受けさせていると、そ
うなってしまう、というだけのことです。

子どもは、好奇心が盛んでなんでもやってみたいものです。独善的なものや悪い
ことは直感的にわかるものです。

子どものために確保してやらなければならないは、まず安心です。
帰る港があり、いつでも補給できるとわかっているから、冒険の旅に出て行くこ
とができるのです。
「子どもの安心」を心がけているだけで、たいていのことはうまく回っていきま
す。

 


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古山明男

サバイバルモード

 

古山です。

「サバイバルモード」という概念に出会い、なるほど、と納得しています。
生物が緊張、警戒している状態のことです。
脳の基本的生存を司っている部分で起こり、考えだけでコントロールするのは困
難です。

「ある生物がサバイバルモードにはまり込むと、目に見えない相手を撃退するこ
とに精力が注がれ、養育や世話、愛のための余裕がなくなってしまうわけだ。

私たち人間にとって、それはこういうことを意味する。すなわち、心が目に見え
ない攻撃から自らを防御しているかぎり、私たちの最も緊密な絆も脅かされると
ともに、想像したり、計画を立てたり、遊んだり、学んだり、他者の欲求に注意
を払ったりする能力も損なわれてしまうのだ」

(『身体はトラウマを記録する』ベッセル・ヴァン・デア・コーク p126)

急性症状を示す不登校の子どもたちは、この状態だと思われます。

この『身体はトラウマを記録する』によれば、修復には、基本的に3つの方法が
あります。(大人の場合)

1他者と話し、つながり、トラウマの記憶を処理しながら、自己に何が起こって
いるか知って理解する。

2不適切な警告反応を抑制する薬を服用したり、脳が情報をまとめる方法を変え
るような他の技術を利用したりする。

3トラウマに起因する無力感や憤激、虚脱状態とは相容れないと身体の芯から感
じられる体験をする。


このどれが最適かは、やってみないとわからない。
著者が治療した人の大半は、一つの方法だけではうまくいかなかった。

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古山明男

 

 

親が支持する

 

古山です。

教育の大きな根幹として、シュタイナーの言っているこは、傾聴に値すると思い
ます。

7歳までは、模倣することで育つ。

7~14、5歳は、尊敬できる大人の言うことを聞いて育つ。

14,5歳~21歳は、愛することを学ぶ。


では、7~14、5歳期のホームスクールだったら?

「おまえがやってみたいことをやり、美しいと感じること、正しいと感じること
を大事にしなさい。助けが必要なときはいつでも言いなさい。」
と、子どもに語りかけていることです。

これを、何も言わずにただ自由にさせるだけだと、この年齢は何かしら足りない
ものが生じます。
「学校行きたくないの。じゃ、好きにしなさい」ではないのです。


親の言うことは子どもにとって、自明の正しさを持っているものです。

そういう自明の正しさを持っている親が身近にいて、支持してくれているという
こと自体が、子どもの力を引き出しています。

 

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古山明男

お役所仕事の教育

 

古山です。

いまの義務教育は、教育というよりお役所仕事です。出席や卒業の形式を整える
ことが至上目的になってしまっています。

教育することが卒業証書を得ることにすりかわった。
学ぶことが、教室に座っていることにすりかわった。

憲法の言う「義務教育」は、保護者が子どもに教育を受けさせる義務です。
そこには、学校に行けとは書いてない。

ところが、現実には、ものすごく狭い教育方法しかしない学校が一種類だけあっ
て、そこに行かせろという下位の法律があります。

そこに無理に行かせるから、子どもが嫌がる、落ちこぼれる、行かなくなる。
そういう子どもがたくさん現れます。

本の学校は、そのことに学びませんでした。自己改革をしませんでした。何が
教育であるかを考え直さなかった。「どうやって来させるか」だけ考えていまし
た。

学校が自己改革できるシステムができていない。訓示を垂れ、標語を掲げること
しかできない。
誰もが「個人的はおかしいと思うのですが」というしかなかった。

結局「保健室もあります」というレベルでしか手を打てななかった。


学校は出席至上主義です。学校で何も学んでいなくても、学校でいじめられてい
ても、出席しなければいけないのです。

教室にいられないなら、保健室に。

学校の中に入れないなら、せめて校門まで。

毎日が無理なら、週1回でも。

「来させる習慣を作る」
「机に向かう習慣を作る」

ほんとうに、そういうことに意味があるのですか?
ロボットを作りましょうと言っているだけです。


教育は難しくないです。

子どもには、好奇心があるし、ともだちがほしいし、活動意欲があります。

家庭での生活を充実させることのなかに、すべての学びがこもっています。


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古山明男

 

才能教育とはまた違った次元で

 


それぞれの人間に持って生まれたいろいろな持ち味がある、その持ち味を生かす
ために生まれてきている、ということを感じます。

これは、単にいろんな才能がある、という意味ではありません。
よく「お勉強はさっぱりだけど、スポーツが、絵を描くのが....」と言い方
がされる子どもたちがいます。
そういう目で見てあげるといい子どもたちも確かにいます。でも、技能に着目し
ていく見方には、しょせんは狭いところがあります。食っていくための才能、評
価されるための才能、というところしか見ていない感じなのです。現在の「学歴、
資格を身につけ、能力を伸ばして社会に出る」という教育観の中での見方だと思
います。

「この人、どうも癒やし系だ」という人がときどきいます。
どうということのない人だけど、いっしょに居て邪魔にならない。落ち着く。そ
の人と居ると悩み事が気にならない。そんな感じなのです。
こういう人たちは、「こうでなければならない」が内面にないのです。起こるこ
とをハートで受け止める力を持っている。だから人が癒やされる。
こういう人たちは、世の宝みたいな人だと思います。
しかし、このタイプは、おおむね現在の教育体系には合わないことが多いのです。
もし、こういう人たちが「自分の目標を持って、頑張る」ような生き方をしたら、
大事なものが壊れてしまっていたと思います。「わたしは、これこれができるの
です」と誇らしく見せることができるようなものは持っていないことが多い。

それと似ているのですが、『太古の知恵』系の人たちがいるように思います。
これは、東洋では「老子」とか、「悟りを開いた人」みたいなモデルが知られて
いるので、いささかは理解されやすいとは思います。
このタイプは、知識、技能の習得を「小賢しいこと」と感じ取る直感を持ってい
て、人生知だけに焦点を当てているような感じ。このタイプのすごいところは、
他人に「おまえはバカだ」と言われると、ほんとうに「自分はバカだ」と信じ込
むこと。

そういう人生知系の人たちと違い、才能系の人は、比較的現在の価値観でも測り
やすいのですが、その中にもいろいろいます。ものすごく才能に恵まれているが、
いったんうまくいかなくなると、自分も他人も切り裂いていくようなタイプ。

 

本当に才能らしい才能に恵まれた人たちは、子どもであっても、他人からの指示、
アドバイスが邪魔になってしまうことが多い。そこまで見抜いて援助できる教師
は少ない。

中国の三国志に出てくるような「治世の奸、乱世の雄」というようなタイプもい
ます。学校などバカにしていることが多い。

芸術系の人たちが最も必要としているのは、知識・技能ではなくて、自分に流れ
込んでくる様々な印象や感情の暴風の中で、いかに生き抜くかのアート(技術)
です。

その他、たくさん、たくさん。

現在の義務教育の理念は、「人はいろいろです。だから、それは尊重したまま、
最低限のことだけ身につけさせましょう」のはずです。そうであってほしい。
ところが、実際は、プレッシャーをかけ、与えられたノルマを達成させる生き方
を叩き込んでいる。学校の拘束時間は長いし、休日や家庭でまでの努力を要求す
る。だもので、その人の持ち味が見えなくなる

もちろん、そういう教育でも、よいところだけ取り込んでいける人たちもいます。
でも、そういう人たちは少数だと思います。

合わない人たちもたくさんいます。学校時代は、ただぼんやりと過ごした、とい
う人たちの多くには、もっとましな教育があり得たと思います。
発達障害や、学習障害と思われている人たちに、実は違うタイプの知性、違うタ
イプの生き方であるものが多いように思います。

人が学ばなくなるのは、恐怖によってです。訓練不足ではありません。

恐怖に訴えないこと、「これは美しい、これは立派だ」というようなことを子ど
もと分かち合おうとすること。そのくらいのことをしているだけで、その子がど
ういうものであるか、見えてくるものです。


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古山明男

 

子供の飛びおり

 

古山です


子どもは木登りが好きです。木といわず、塀でも建物でも、よく登ります。

その逆の、飛び降りも好きです。
これも、子どもたちがよくやります。私もよくやりました。階段を何段飛び降り
ることができるか、だんだん高いところからやって、「もうこれ以上は、怖い」
というところまでやります。

なぜだろう? なにがおもしろいのだろう?

木登りは、技術と判断を磨いていくおもしろさがあります。でも飛び降りは、さ
ほど技術はない。

これは、決断力の自己訓練じゃないかと思います。「怖い、でもやってみよう」
という決断力と、「あぶない。やめよう」という決断力。どちらも、生きていく
のにほんとうに必要になるものです。

もう一つ、「身を任せる」感覚を磨くこと。
なにかをやって、ここまでは自分でコントロールが効く、でもここから先は身を
任せるしかない、というところがあります。就職もそう、結婚もそう、事業を始
めるのもそう。
人生に締めくくりをつけたくて悟ってしまうのもそう、愛の中に溶けてしまうの
もそう。

ここに、「受け止めてもらえる」感覚が加わっていると、勇気が湧きます。
高さはどんなに低くてもいいから、腕を広げて「ここに飛び降りてごらん」とや
ってもらえるのは、素晴らしいことです。私は、父にやってもらった覚えがあり
ます。
人の腕の中に飛び降りて受け止めてもらえたときの気持ちよさ。
どんな恋愛より気持ちがいいから。

私は、押し入れの中のふとんを引っ張り出して下に敷いて、押し入れの上の段か
ら飛び降りるのが好きでした。ふわんと受け止められている。いいですねえ。受
け止めるのを他人がやってくれなきゃ、自分でやるさ。


飛び降りには、一瞬で視点が変わるというおもしろさもあります。木登りのほう
は、だんだん高くなって視野が開けていくのが嬉しい。飛び降りは、視野が一瞬
で切り変わるのが嬉しいのです。見えるものすべてがばっと動き、気がつくと違
った視点になっている。
身体ごと視点を切り替えるおもしろさは、後年になって思想、哲学で視点を切り
替えるおもしろさと、共通したものがあると思います。


大人の立場からすると、子どもの木登りと飛び降りを支援するのは、ものすごく
高度なものが必要になります。
大事なのは、子どもが意欲を持つことと、危険を自己評価し自己管理できること
です。結果ができたできないは、さほど重要ではない。

「あぶない、あぶない」とやめさせるのが最悪。
でも、園や学校という立場にいると、万が一のときに責任問題になるから、やめ
させざるを得ない。

「あぶないから気をつけなさい」もよくない。集中力をそぎ緊張させるだけです。

褒めたり励ましたりするのは、ウケねらいで、危ないことをさせる怖れがありま
す。このように、木に登ってしまった子どもへの声のかけ方は、高度な判断が必
要になります。

木登りや飛び降りは、基本的には自己教育に属するもので、課題を与え達成させ
評価する、というサイクルには入れにくいものなのだと思います。

 


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古山明男