huruyama blog

学びや子育てやホームスクールなどなど 古山明男さんのコラムが大好きなので ご本人の許可を頂き紹介しています。

普通教育機会確保法第3条(二)

古山です。

「教育機会確保法」は、不登校を現実と認めて現状のまま支援せよ、という主旨
の法律です。私たちにとって、影響の大きい法律です。その重要な点をまとめて
います。

(理念)第3条
二 不登校児童生徒が行う多様な学習活動の実情を踏まえ、個々の不登校児童生
徒の状況に応じた必要な支援が行われるようにすること。

<説明>
「多様な学習活動の実情を踏まえ」と言っています。学校に限らない、教科学習
に限らない。実情に沿って、そして個々の状況に応じて支援せよ。

この条文で、学校に行かないことも、保護されます。さらに、この条文を受けて、
第13条が、同じことをもっと具体的に言っています。

ただ、学校に行けるけど、よりよい教育としてホームスクールを選んだ場合はと
いうと、この法律の対象外です。
その場合は、「学校での集団生活に困難があります」ということを前面に出して、
不登校に含めてもらい、実績を積み重ねて次の法制化を待つという方向かと思い
ます。

国際条約や憲法によって、ホームスクールは正当である、と主張することはでき
ます。でも、国内法の整備がないので、学校や行政の方たちを動かすことは無理
です。

国会議員には、「いまの学校教育の枠組みに縛られることはないじゃないか」と
いう人たちはけっこういます。


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古山明男

普通教育機会確保法第3条(一)

 

古山です。

第3条のはじめの3項目を読んで、どんな印象を持たれましたか。

不登校の子どもを護ると言っているのに、これは、学校に来なさいというのが基
本になっているじゃないの? そんな印象を持ちませんでしたか。

たとえば、一の
「全ての児童生徒が豊かな学校生活を送り、安心して教育を受けられるよ
う...」
は、
「全ての児童生徒」と言っているのだから、不登校の子どもも含まれるではあり
ませんか。その子どもたちが「豊かな学校生活を送り」ですから、学校に来させ
ろということなのでしょうか。

のっけから、こんな文が出てくる。いったい、なんのための法律だ、これは。

そこが、この条文のしかけなのです。
ちょっと学校の勉強めいて申し訳ないのですが、次の文の主語はなんでしょうか。

一 全ての児童生徒が豊かな学校生活を送り、安心して教育を受けられるよう、
学校における環境の確保が図られるようにすること。

はい、そうなんです。
「学校における環境の確保」です。

つまりこの文は、児童生徒が学校に来いとは言っていません。学校を良くしなさ
い、と言っています。

不登校問題がある。まずは、学校を良くしろ。と、当たり前のことを言っていま
す。
子どものせいにするな、学校のことを考えろということだ。そこまで読み取って
もいいです。

でも、「学校は頑張ることを学ぶ場だ」と考えている人たちは、「全ての児童生
徒が豊かな学校生活を送り、安心して教育を受けられるよう、」で安心するわけ
です。これなら、学校に来るのが当たり前である、という前提を崩してはいない
と。

それは、誤読です。
しかし、この条文は誤読を狙っているのです。そうしないと、法律が成立しなか
った。

これからも、誤読は後を絶たないでしょう。

この条文は、子どもを学校に来させよという意味ではない、学校を良くせよとい
う意味だ、ということは、きちんと押さえておかないといけないです。

 

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古山明男

 

 

 

 

普通教育機会確保法第3条

 

古山です

硬い話になってもうしわけないのですが、すこし、法律の条文に立ち入らせてく
ださい。学校外での教育をしようという人たちにとっては、たいへん影響の大き
い法律です。

この、第3条が基本的なところを決めています。5項目あるうちの最初の3項目
を引用しました。とにかく気軽に読んでみてください。
どのように感じましたか?


第3条

一 全ての児童生徒が豊かな学校生活を送り、安心して教育を受けられるよう、
学校における環境の確保が図られるようにすること。

二 不登校児童生徒が行う多様な学習活動の実情を踏まえ、個々の不登校児童生
徒の状況に応じた必要な支援が行われるようにすること。

三 不登校児童生徒が安心して教育を十分に受けられるよう、学校における環境
の整備が図られるようにすること。

 


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古山明男

遊びの理論

 


古山です。

遊びの理論をまとめようと試みています。

遊びには伝染性があります。誰かが楽しく遊んでいると、ほかの子どももやりた
くなるのです。

2歳の子でも、これは普通に見られます。

2,3歳の子どもたちが、おもちゃの奪い合いでけんかになることがしょっちゅ
うあります。親は、「人の物を奪ってはいけないことを、いまからしつけなかっ
たどうなることか」とハラハラするのですが、これは、まったく心配いりません。
自然解消します。

「ほかの子が、とても楽しい思いをしている。自分も味わいたい」それだけなの
です。2,3歳では、他人の状況まで読めないというだけのことです。「自分も
味わいたい」は、向上心と言ってもいいです。これが、学習の基盤なのです。

遊びには、大きくわけて、一人遊びと集団遊びがあります。どちらも伝染性があ
ります。

いまでは、本、雑誌や、ネットなどでも伝染します。

「おもしろいことをやってみたい」
これが、学びの動機です。

いまの学校教育が、この大事な大事な動機を、無視しています。
だもので、ムチとにんじん、「将来は?」という脅しを持ち出さなければならな
くなるのです。

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古山明男

 

ストーリー遊び

古山です。

子どもは、さまざまな遊びをしています。
その中にストーリー遊びがあります。子どものストーリー遊びの世界に入り込ん
でいくと、子どもがたいへん精神的な存在であることがわかります。


子どもが遊んでいるとき、たいてい、何かのストーリーが伴っていることに気が
つくと思います。先日の有栖川宮公園でのお遊び会での例ですと、まさとくんと
ゆりくんが、地面に線を描いていましたが、それは電車の線路で、どこかにつな
がっているのでした。地面に埋まっている石を掘り出そうとしているのは、それ
が何かの宝物だからでした。

このようなストーリー遊びは、子どもの発達になくてはならない重要なものです。
トーリー遊びは、大人の思想・哲学に相当するものなのです。

子どもの発達を大人の目から見ますと、感覚を発達させ、身体を使いこなし、物
を扱い、社会性を身につけていくと見えます。ところが、同じことを子どもの意
識がどうとらえているかというと、さまざまはストーリーがわき起こってきて、
それに従って何かを演じたり、物を並べたりしているのです。

地面に半分埋もれている石を掘り起こそうとするとき、それが技術の習得になる
からやっているのではありません。それが海賊の宝であるから掘り出そうとして
いるのです。

このようなストーリーは、ビジュアルなものです。言葉でもある程度表現されま
すが、本体は映画のようなものとして子どもの中に直感的に浮かんできます。こ
のビジュアル・ストーリーは、大人になっても、眠っているときに見る夢という
形で残っています。

数日前、私は朝目が覚めるときに、夢を見ていました。「海辺に車を運転してや
ってきたが、車からちょっと降りてなにかの用件に関わっているうちに、車が見
つからなくなってしまった。自分の車はどこだろうと探し回っている」という夢
でした。

その数日前に、私は思考と感情と身体の感覚をうまく溶け合わせることができて、
「ああ、生きるってこういうことだ。幸せだ」という感じをつかんでいました。
ところがそれから元気まかせに、東京での教育関係の集会でコーディネーターを
やっていました。自分の身体のことをつい忘れ、他人に流され、自分の社会的能
力に「もっとうまくできたはずだ」とふがいなくなります。そして、疲れたとき
に特有の甘い物食いをやって、心身のバランスを崩していました。

でも、その疲れにあまり気がついていなくて、「あの本を読んで、あれを文章に
まとめて」ということばかり考えています。考えていても、集中力はさっぱりな
い。そういう状態でした。

夢は、その状況のことを「こういうことになっているのさ」と説明していました。
自分の昼間の意識が、目先のことに埋もれてしまっています。そうすると、生き
ることそのものから湧いてくるような知恵が現れてきて、ビジュアルなストー
リーを使い、「自分の車を見失ったようなものなのさ」と伝えているのでした。

このようなビジュアルなストーリーは、状況判断であり、そのときそのときに行
動指針なのです。子どもの場合は、眠っている時だけでなく、いつも湧いている
のです。その場その場の行動指針のこともありますし、長期にわたる人生行路に
ついて言っている場合もあります。

言語を使った思考は、かなり年齢がいってからでないと使いこなせるまでに充実
してきません。また、言語思考は、使いこなしやすいという利点はありますが、
届く範囲が狭いのです。

子どもは、感覚や感情で生きているのではありません。いつも高度な判断と思想
が伴っています。それが、いつもわき起こってくるストーリー遊びなのです。子
どものファンタジーとも呼ばれます。

子どものファンタジーの重要性をはっきり認識し、ファンタジーから働きかけよ
うとしているのは、シュタイナー教育です。

とくに認識しているわけではないければ、「子どものやりたがることを大事にし
ていればいいのさ」というのが、自由保育、自由教育です。結果的に、ファンタ
ジーを大事にしています。

子どもの内面は、ストーリーで溢れています。それを遮って、知識や技能の習得
に振り向けさせるというのが、普通の学校教育です。短時間なら、それもかまい
ません。でも、一日の中でも長時間、週や月や年の単位でも長期間に渡って子ど
もの内面をストーリー遊びから切り離しますと、自分が生きている実感を失いま
す。自分が人生の主人公でなくなり、ロボットのようなものになっていきます。

子どものストーリー遊びは、やがてさまざまな形に発展していきます。思想、芸
術、哲学になっていきます。

そのことを理解していて、子どもの遊びに暖かい目を注いでいること自体が、大
事な教育になっているのです。

 

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古山明男

子供の発達経路

古山です。

ある、算数の得意でない子に8歳くらいからずっと算数を教えていました。

11歳くらいになって、ふつうに式を書いて計算するようなことも、「できた、お
もしろい」と感じるようなところにきました。
学校を嫌がって行かなかった子ですが、この子に学校タイプの勉強を無理させな
くてよかった、と思います。自分は駄目だと思い込むか、学習障害のレッテルを
貼られるかになっていたろうと思います。

マンツーマンで見ていましたので、本人の感覚や発想までわかります。これは教
え方や努力の問題ではない、知性のタイプの違いだ、としか思えませんでした。

 

算数のような、記号を使いこなすような学習に対して、子どもがいつになったら
成熟しているのか、ものすごく個人差があります。

早い子で5歳くらい、遅い子で11歳くらいと思われます。
(自分の経験と、人からの伝聞をもとにしています。きちんとした研究が望まれ
るのですが、存在しません。)

個性としかいいようのないものがあります。これは、感覚的に物事をとらえる段
階に十分な時間をかけていく子と、さっさと記号に置き換えて考えるところに行
く子との違いだと思います。

良い悪いではなくて、個性です。
早く始めても、遅く始めても、たどり着くところは同じです。


私の甥の場合ですが、物理の修士課程まで終え、高等数学を使いこなしています。
いま、エンジニアをやっています。
これが、小学生のとき、お世辞にも算数が冴えた子ではなかった。割り算の「立
てる、掛ける、引く、降ろす」の手続きがなかなか覚えられない、ごく普通の子
でした。

ホームスクールになり、中学生の年齢のとき、方程式のイロハを教えようとした
ら、「どうしてエックスを使うのかわからない」ととことん抵抗しました。教え
ようがなかった。

文字式を使うようになったのが17歳です。それからは、あっという間に高校を超
えたレベルまで行ってしまいました。要所要所を私がちょっとは教えたのですが、
ほぼ本人が勝手にやりました。

ただ、甥の場合は、知性のタイプは数学向きだったと思います。「これは、こう
なっているからこうするんだ」と考えるのは自然にやっていました。学校という
場になじめなかったようです。まず、十分に遊びこんで、自分の感覚で動くこと
が自然になって、それからのことだったように思われます。


いま、世間では、小学校各学年でつまづいたらもうだめ、と信じられています。
それは、間違いです。学校の体系が、「この列車にしがみついているしかない」
ように作られている、というだけのことです。

 


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古山明男

説諭主義でなく

古山です。

保育園、幼稚園、学校などで、子どもがまずいことをしたときに、「ごめんなさ
い」を言うまで、とことんお説教することがよくあります。場合によると、ごめ
んなさいを言うまでどこかの部屋から出さなかったりします。

あれは、間違っていると思うのです。精神的暴力を振るっているだけです。子ど
もは怖くて言うとおりにするか、頭が真っ白になって何も反応できなくなってい
るかです。、

たとえ幼児であっても、謝るかどうかは、本人の精神の自由です。
ところが、日本文化の大勢は、お説教するのが教育だと思っています。

迷惑なことや危険なことを子どもがしたら、それがまずいということは伝えるべ
きです。
しかし、「わかりました」と言うまでえんえんと説諭するとか、無理にでも「ご
めんなさい」を言わせていたのでは、子どもの心が育ちません。子どもに危害を
加えているだけです。

大阪の大空小学校というところの障害児教育が素晴らしいと言われ、映画ができ
ていました。その映画を見たら、大人からの説諭主義なんです。逃げ出した子ど
もを連れ戻し、子どもが「わかりました」と言うまで、先生が説いて聞かせる。
あんなののどこが素晴らしいのか、と思いました。

そうしたら、中心になっていた校長先生が定年でやめたあとは、もう子どもたち
がいうことを聞かなくなっているそうです。


一昨日の音楽スタジオは、楽しいお遊び会でした。遊んでいるうちに子どもがエ
スカレートして、お店の器物を蹴とばすとか、頭に来た子が椅子を振り上げよう
とするとかがありました。そんなとき、大人たちが「だめだよ」と言うけど、そ
れ以上は追求しない。あとは、子どもたちを気遣っています。

私たちでいい教育グループを作れている、と思いました。


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古山明男