huruyama blog

学びや子育てやホームスクールなどなど 古山明男さんのコラムが大好きなので ご本人の許可を頂き紹介しています。

遊びの理論

 


古山です。

遊びの理論をまとめようと試みています。

遊びには伝染性があります。誰かが楽しく遊んでいると、ほかの子どももやりた
くなるのです。

2歳の子でも、これは普通に見られます。

2,3歳の子どもたちが、おもちゃの奪い合いでけんかになることがしょっちゅ
うあります。親は、「人の物を奪ってはいけないことを、いまからしつけなかっ
たどうなることか」とハラハラするのですが、これは、まったく心配いりません。
自然解消します。

「ほかの子が、とても楽しい思いをしている。自分も味わいたい」それだけなの
です。2,3歳では、他人の状況まで読めないというだけのことです。「自分も
味わいたい」は、向上心と言ってもいいです。これが、学習の基盤なのです。

遊びには、大きくわけて、一人遊びと集団遊びがあります。どちらも伝染性があ
ります。

いまでは、本、雑誌や、ネットなどでも伝染します。

「おもしろいことをやってみたい」
これが、学びの動機です。

いまの学校教育が、この大事な大事な動機を、無視しています。
だもので、ムチとにんじん、「将来は?」という脅しを持ち出さなければならな
くなるのです。

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古山明男

 

ストーリー遊び

古山です。

子どもは、さまざまな遊びをしています。
その中にストーリー遊びがあります。子どものストーリー遊びの世界に入り込ん
でいくと、子どもがたいへん精神的な存在であることがわかります。


子どもが遊んでいるとき、たいてい、何かのストーリーが伴っていることに気が
つくと思います。先日の有栖川宮公園でのお遊び会での例ですと、まさとくんと
ゆりくんが、地面に線を描いていましたが、それは電車の線路で、どこかにつな
がっているのでした。地面に埋まっている石を掘り出そうとしているのは、それ
が何かの宝物だからでした。

このようなストーリー遊びは、子どもの発達になくてはならない重要なものです。
トーリー遊びは、大人の思想・哲学に相当するものなのです。

子どもの発達を大人の目から見ますと、感覚を発達させ、身体を使いこなし、物
を扱い、社会性を身につけていくと見えます。ところが、同じことを子どもの意
識がどうとらえているかというと、さまざまはストーリーがわき起こってきて、
それに従って何かを演じたり、物を並べたりしているのです。

地面に半分埋もれている石を掘り起こそうとするとき、それが技術の習得になる
からやっているのではありません。それが海賊の宝であるから掘り出そうとして
いるのです。

このようなストーリーは、ビジュアルなものです。言葉でもある程度表現されま
すが、本体は映画のようなものとして子どもの中に直感的に浮かんできます。こ
のビジュアル・ストーリーは、大人になっても、眠っているときに見る夢という
形で残っています。

数日前、私は朝目が覚めるときに、夢を見ていました。「海辺に車を運転してや
ってきたが、車からちょっと降りてなにかの用件に関わっているうちに、車が見
つからなくなってしまった。自分の車はどこだろうと探し回っている」という夢
でした。

その数日前に、私は思考と感情と身体の感覚をうまく溶け合わせることができて、
「ああ、生きるってこういうことだ。幸せだ」という感じをつかんでいました。
ところがそれから元気まかせに、東京での教育関係の集会でコーディネーターを
やっていました。自分の身体のことをつい忘れ、他人に流され、自分の社会的能
力に「もっとうまくできたはずだ」とふがいなくなります。そして、疲れたとき
に特有の甘い物食いをやって、心身のバランスを崩していました。

でも、その疲れにあまり気がついていなくて、「あの本を読んで、あれを文章に
まとめて」ということばかり考えています。考えていても、集中力はさっぱりな
い。そういう状態でした。

夢は、その状況のことを「こういうことになっているのさ」と説明していました。
自分の昼間の意識が、目先のことに埋もれてしまっています。そうすると、生き
ることそのものから湧いてくるような知恵が現れてきて、ビジュアルなストー
リーを使い、「自分の車を見失ったようなものなのさ」と伝えているのでした。

このようなビジュアルなストーリーは、状況判断であり、そのときそのときに行
動指針なのです。子どもの場合は、眠っている時だけでなく、いつも湧いている
のです。その場その場の行動指針のこともありますし、長期にわたる人生行路に
ついて言っている場合もあります。

言語を使った思考は、かなり年齢がいってからでないと使いこなせるまでに充実
してきません。また、言語思考は、使いこなしやすいという利点はありますが、
届く範囲が狭いのです。

子どもは、感覚や感情で生きているのではありません。いつも高度な判断と思想
が伴っています。それが、いつもわき起こってくるストーリー遊びなのです。子
どものファンタジーとも呼ばれます。

子どものファンタジーの重要性をはっきり認識し、ファンタジーから働きかけよ
うとしているのは、シュタイナー教育です。

とくに認識しているわけではないければ、「子どものやりたがることを大事にし
ていればいいのさ」というのが、自由保育、自由教育です。結果的に、ファンタ
ジーを大事にしています。

子どもの内面は、ストーリーで溢れています。それを遮って、知識や技能の習得
に振り向けさせるというのが、普通の学校教育です。短時間なら、それもかまい
ません。でも、一日の中でも長時間、週や月や年の単位でも長期間に渡って子ど
もの内面をストーリー遊びから切り離しますと、自分が生きている実感を失いま
す。自分が人生の主人公でなくなり、ロボットのようなものになっていきます。

子どものストーリー遊びは、やがてさまざまな形に発展していきます。思想、芸
術、哲学になっていきます。

そのことを理解していて、子どもの遊びに暖かい目を注いでいること自体が、大
事な教育になっているのです。

 

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古山明男

子供の発達経路

古山です。

ある、算数の得意でない子に8歳くらいからずっと算数を教えていました。

11歳くらいになって、ふつうに式を書いて計算するようなことも、「できた、お
もしろい」と感じるようなところにきました。
学校を嫌がって行かなかった子ですが、この子に学校タイプの勉強を無理させな
くてよかった、と思います。自分は駄目だと思い込むか、学習障害のレッテルを
貼られるかになっていたろうと思います。

マンツーマンで見ていましたので、本人の感覚や発想までわかります。これは教
え方や努力の問題ではない、知性のタイプの違いだ、としか思えませんでした。

 

算数のような、記号を使いこなすような学習に対して、子どもがいつになったら
成熟しているのか、ものすごく個人差があります。

早い子で5歳くらい、遅い子で11歳くらいと思われます。
(自分の経験と、人からの伝聞をもとにしています。きちんとした研究が望まれ
るのですが、存在しません。)

個性としかいいようのないものがあります。これは、感覚的に物事をとらえる段
階に十分な時間をかけていく子と、さっさと記号に置き換えて考えるところに行
く子との違いだと思います。

良い悪いではなくて、個性です。
早く始めても、遅く始めても、たどり着くところは同じです。


私の甥の場合ですが、物理の修士課程まで終え、高等数学を使いこなしています。
いま、エンジニアをやっています。
これが、小学生のとき、お世辞にも算数が冴えた子ではなかった。割り算の「立
てる、掛ける、引く、降ろす」の手続きがなかなか覚えられない、ごく普通の子
でした。

ホームスクールになり、中学生の年齢のとき、方程式のイロハを教えようとした
ら、「どうしてエックスを使うのかわからない」ととことん抵抗しました。教え
ようがなかった。

文字式を使うようになったのが17歳です。それからは、あっという間に高校を超
えたレベルまで行ってしまいました。要所要所を私がちょっとは教えたのですが、
ほぼ本人が勝手にやりました。

ただ、甥の場合は、知性のタイプは数学向きだったと思います。「これは、こう
なっているからこうするんだ」と考えるのは自然にやっていました。学校という
場になじめなかったようです。まず、十分に遊びこんで、自分の感覚で動くこと
が自然になって、それからのことだったように思われます。


いま、世間では、小学校各学年でつまづいたらもうだめ、と信じられています。
それは、間違いです。学校の体系が、「この列車にしがみついているしかない」
ように作られている、というだけのことです。

 


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古山明男

説諭主義でなく

古山です。

保育園、幼稚園、学校などで、子どもがまずいことをしたときに、「ごめんなさ
い」を言うまで、とことんお説教することがよくあります。場合によると、ごめ
んなさいを言うまでどこかの部屋から出さなかったりします。

あれは、間違っていると思うのです。精神的暴力を振るっているだけです。子ど
もは怖くて言うとおりにするか、頭が真っ白になって何も反応できなくなってい
るかです。、

たとえ幼児であっても、謝るかどうかは、本人の精神の自由です。
ところが、日本文化の大勢は、お説教するのが教育だと思っています。

迷惑なことや危険なことを子どもがしたら、それがまずいということは伝えるべ
きです。
しかし、「わかりました」と言うまでえんえんと説諭するとか、無理にでも「ご
めんなさい」を言わせていたのでは、子どもの心が育ちません。子どもに危害を
加えているだけです。

大阪の大空小学校というところの障害児教育が素晴らしいと言われ、映画ができ
ていました。その映画を見たら、大人からの説諭主義なんです。逃げ出した子ど
もを連れ戻し、子どもが「わかりました」と言うまで、先生が説いて聞かせる。
あんなののどこが素晴らしいのか、と思いました。

そうしたら、中心になっていた校長先生が定年でやめたあとは、もう子どもたち
がいうことを聞かなくなっているそうです。


一昨日の音楽スタジオは、楽しいお遊び会でした。遊んでいるうちに子どもがエ
スカレートして、お店の器物を蹴とばすとか、頭に来た子が椅子を振り上げよう
とするとかがありました。そんなとき、大人たちが「だめだよ」と言うけど、そ
れ以上は追求しない。あとは、子どもたちを気遣っています。

私たちでいい教育グループを作れている、と思いました。


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古山明男

犬のしつけ 人間のしつけ

古山です。

ひょんなことで、生後8か月のヨークシャーテリヤをうちで預かることになりま
した。かわいいですねえ。
少ししつけようと、ネットやら本やらを調べました。人間の子どものしつけと同
じだなあ、というところと、人間と犬は違う、というところがあります。

人間と同じだなあ、というところは

「叱りつけてはいけない」

「褒めたり叱ったりは3秒以内にやらないと、何を褒められたのか叱られたのか
がわからない」

などです。加害行為をやると従わなくなってしまうことは、人間と同じ。


人間とは違う、というところは、犬は主従関係によって人間と関係を持っている
ことです。自然でのオオカミや犬は、リーダーがいる群れを作っています。リー
ダーには絶対服従しないと、厳しい制裁があります。

犬のその性質を利用して、人間が犬を家畜にしてしまったのです。ハムスターや
ウサギとは違います。犬は、基本的には主従関係のなかで、飼うことになります。

犬のしつけでは、まず、服従訓練をします。「まて」「おすわり」などの指示を
出し、かならず実行させます。

それを読んでいたら、どうしても日本の小学校と中学校を思い浮かべてしまいま
す。
あそこは、読み書き計算を教えると言ってますけれど、まず服従訓練をやってま
す。

服従訓練とは、それ自体は意味のないことを指示し、従わなければ制裁を加える
ことです。
「それ自体に意味があるなら、するのは当たり前だ。しかし、きみは、指示され
れば無意味なことでもやるかね。自分が嫌なことでもやるかね」
それが、服従訓練です。


だから学校は、「きをつけ」「前へならえ」をやります。

「家庭にいてさえ、指示を忘れないようにできるかね」と宿題を出します。

制服を決めて、細部まで守らせます。


でも、この服従訓練が子どもたちの知性を破壊しているのではないですか。
さまざまな学校不適応が起こる原因ではないですか。

わざわざ、他人が嫌がることを仕掛けるのが服従訓練です。子どもが真似したら
まずいのではないですか。
実際、他の子に無理難題をふっかけては制裁する遊びが学校で流行ります。いじ
めというやつです。

服従訓練は、学校にとって便利なことはわかります。いったん服従させてしまえ
ば、どんなことも教えることができます。「こんな教育成果を挙げました。と誇
示することができます」

愛と知性以外はね。


人間は、信頼している人の言うことはよく聞くものです。美しいものや善いこと
に触れれば、自分も真似したいと思います。
犬とは基本的な原理が違います。

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古山明男

傷を癒すこと

古山です。

大人たちは、多くの心理的な傷を負って生きています。

子どもたちもです。

傷に応じて、私たちは、防御的になり、あるいは攻撃的になり、あるいは鈍感・
無関心になります。

私たちは、自分の傷を癒すことができるでしょうか。
子どもたちの傷を癒すことができるでしょうか。

子どもたちがこれから傷を負わずに生きることができるようにしてあげられるで
しょうか。

これは、子どもが交通事故に遇わないように教えるのと同じくらい、重要なこと
だと思います。

教育とは、幸せに生きることを教えることだと思います。
教えるというより、子どもと共に発見していくことです。


子どもたちは傷を負ったとき、親のところにやってきてグジグジします。それに
なんとなく対応したり、あやしたり、撫でてやったりしているうちに、なんとな
く収まります。
あのとき、いったい何が起こっているのでしょうか。
あのような温かい気遣いを、私たちは自分にできるでしょうか。

動物や植物に触れたとき、人の心に触れたとき、なにかを心を込めて作ったとき、
人間の中の善なるものに触れたとき、その他いろいろな触れ合いで、私たちは癒
されます。
傷を負うというのは、痛みに耐えかねて、縮こまることですから。
癒すものは、いたるところにあります。

癒すものは、
祝祭の気分。ちょっとした誕生パーティ、クリスマス、お正月。

虚栄や偽善を見抜くこと。賞罰の浅薄さを見抜くこと。「あれは違う」と思うこ
とができれば、心の傷は負わずにすみます。

雨の中ではしゃぐこと。

楽しいスポーツ。

落ちる雪の一片一片を見つめること。

おいしいものを作ること。

そのほか、たくさんのこと。

あ、それから、楽しいものを差し出しても手を出さない者への気遣い。


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古山明男
Akio Furuyama

焦るとき

古山です。

つくばにあるインターナショナルスクールを見学させてもらえ機会があ
りました。案内してくれる人と、つくばでの駅で待ち合わせることにしていまし
た。

時間に余裕を持って出たつもりが、間の悪い時には、間の悪いことが重なるもの
です。
駅まで車で行こうと思っていたら、前日の雪で、フロントガラスに氷がびっしり。
前が見えない。落とすのに時間がかるのであきらめて、駅まで歩きました。

「後でもいいけど、今、行っておいたほうが...」と、コンビニのトイレに寄
たら、電車を一本、わずかな差で乗り逃した。

その電車は、どこかの駅でなんだかあったそうで、のろのろ運転。大幅な遅れ。

秋葉原の地下の駅が初めてだったので、複雑で、迷った。

やっと、つくば行きの電車に乗れて、先方に「遅れます」と電話しようとしたら、
自分の携帯には、相手の自宅の番号しか入っていなくて、通じない。

とにかく、これ以上早く着く手段はないのだし、先方と連絡を取る方法はない。
「焦ってもしょうがない」とわかっています。

しかし、思いは、「先方は待っいてくれるだろうか」「トイレは、後でもよかっ
た」、「秋葉原の駅のことを調べておけばよかった」などと駆け巡ります。
「焦ってもしょうがない」と思ったところで、止まりません。

ややや、ちょっと待て。
「焦ってもしょうがない」とわかっているのに焦るのは、たくさんの人が苦しん
でいる文明病みたいなものじゃないですか。
他人は「焦らなくていいんじゃない」って言います。「心を落ち着けましょう」
と言う。本人だって、そう言います。心を落ち着けるための本がたくさんある。
でも、そんなの、役に立ったためしがない。

考えてもしょうがないことを考える続けるのは、気持ちそのものを捉えてないか
らなんだ。ということをけっこう自分で見つけてきました。いま、この正体を見
つけなきゃ。本をいくら読んでも、わかりっこない。いま、せっかく実物がある
のだから、もったいない。

と、電車の座席に座りなおして、目を閉じて、「いま、身体の中で何が起こって
いるの?」

身体の中は、もや、もや、もや、なのですが、無理に言葉にすれば、「あ、ヤバ
い」「まずいなあ」というようなものの身体バージョンみたいなものが踊りを踊
っています。ちょっと、いたたまれない感じがします。

でもじきに、また雑念の塊になっています。自分の身体の感じを探っていたこと
も忘れています。

それで、また、「あれあれ、えーっと」と、思い出して...

そんなことをやっているうちに、ふと見上げると、電車の窓の外の景色が、すご
くきれいでした。前日に雪が降ったので、田畑の緑に、うっすらと雪がかかって
いる。家々の屋根が白い。あちらこちらに、紅葉の黄色と緑がある。それが雪の
白とまじっている。空は晴れていて、青い空に白いすじ雲がかかっている。

気が付くと、あの焦りから解放されています。

特に,ありがたい気づきが起こったわけでもないです。いい結論があったわけで
もない。

自分のもやもやに対して、慈しみのようなものがあったと言えばあった。理解が
生じたと言えば、生じた。でも、そんな大仰なものではない感じ。

たとえ話にすると、「こんなことになっちゃったあ」といつまでもグズっている
子どもがいるみたい。はじめ、反省点やら心構えを説いているのだけれど、それ
ではどうにもならないことに気が付いた。それで目を注いでかまってやっていた。
そんな感じかなあ。


子どもがときどき、グジグジとからみついてくることがあります。
いささか手を焼きながらも、こちゃこちゃとかまっているうちに、なんだか収ま
ります。(収まらないこともあるけど)

それって、実は、すごいことをしているのだと思います。

身体的なこと、心理的なことは、それを生き抜くことによってしか、ほんとうに
は学べません。
でも、子どもがそこでつかえてしまって、一人では抜けられなくなってしまって
いる状況というのがあります。そこを、こちゃこちゃとかまっているのが、いい
サポートになります。結論を出してやるのでは、まったく役に立たない。


つくばのインターナショナルスクールを見学させてもらって、いろいろ面白かっ
たです。

算数の時間を見せてもらいました。テキストが、カラフルで図版いっぱい、ワー
クがたくさんついているタイプのものです。ですから、授業であっても、基本的
には自習と、そのサポートです。

先生が、悪い感じじゃないけど、「そこはこうするんだ」ばかり言っていました。
「それ、いいね」もさりげなく入れてあげると、もっといいんですけどね。結論
だけじゃなくて。

 

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古山明男