huruyama blog

学びや子育てやホームスクールなどなど 古山明男さんのコラムが大好きなので ご本人の許可を頂き紹介しています。

授業とは

古山です。

授業というのは、何かをできるようにさせるためにある、と思われています。

そうじゃないと思います。

授業というのは、人が人に親切にするとはどういうことかを、実際に伝えること
だと思います。


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古山明男

上手にやりたいと投げ出したい

 

古山です。

もう一度、明けましておめでとうございます。

犬歳にちなんで、犬の絵を描きました。添付しますが、見れますでしょうか。

昔飼っていた犬です。ジローくんという名前です。賢い犬でした。写真をもとに、
さきほど描きました。

実は、この絵を描いているときに、「学び」について、ものすごく学ぶことがあ
ったもので、その報告も兼ねて絵を送ります。

多少は絵の腕に覚えはあるもので、水彩でサラッと味のある絵を描いてやろうと
思いました。
ところが、やってみると、描けないこと、描けないこと。

書き直しても、さっぱりです。
「だめだ、だめだ」
の思いばかりこみ上げ、投げ出しかけました。

そのとき、「待てよ」と思いました。
自分が研究しているのは、「子どものやる気」じゃないか。いま、子どもが勉強
を投げ出すのと同じ気分のはずだ。絵が描けるかどうかはどうでもいい、とにか
く自分の中で起こっていることを感じ取ろう。

そうやって気持ちを感じてみると。
胸の中に、きつーいものがあります。「まずい、まずい、なってない」と言って
いるのです。

大人になっていますから、眼だけは肥えています。視点がきつい。それ以上描く
気が起こりません。

ああ、そうか。
子どもであるということは、こういうとき、出来映えを気にせずに書き続ける。
それが子どもの才能なのだ。下手であるか、上手であるかは気にならない。

そのうち、大人の視点ができてくる。
そうすると、あれがまずい、これがまずい、ばかり言い出す。そして、型にはま
った絵ばかり描くようになる。

よい教育とは、この大人の視点が子どものやる気と調和していくのだ。

いま、自分でやらなくて、いつやるのか?
いま、自分の中の大人が、自分の中の子どもと調和しなければ。

この、きつーい批評精し神がくせ者です。
ついその批評精神を、「そんなにきつくちゃ、ダメ」と言いたくなる。
でも、そう言うこと自体がキツさじゃありません。ここでダメ出しをしていたら、
同じことになる。

と、胸の中のキツさにダメ出しせずに感じ取っています。キツい自分よ、かわい
そうに「そんな不寛容なのは自分じゃない」と言われて、私から閉め出されてし
まった。それで、厳しく主張しているんだね。

それから、しばらく、キツい気持になっていました。なんの救いもない。つらい
だけ。
それでも、どんなにダメな子であっても、私はこの子を抱きしめる。そんな感じ。

べつにそれでどうなったわけでもないけど、こんなことをして、いったい効果が
あるのだろうか、と思う。
でも、それから、また絵を描く気が起こりました。

そうしたら、特に意図的ではないのですが、まずいところを「こうしてみよう」
という気になります。さっきだったら、「こんなの、もう」と言っていたのが、
「ここをこういうふうにして、もう一度やってみよう」となりました。

そうやって書き直すこと2回。
まあ、なんとかはなっている、というものができました。
不満だらけです。でも、自分でもいちおう見られる。
それが、添付してある絵です。

いや、けっこう気に入った絵になりました。

でも、この自分の中のドラマが面白かったこと、面白かったこと。
みなさんとなら、共有できるかと思いました。

古山明男

 

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失敗してしまったときの気持ち

古山です。

いい天気だし、家の外装でペンキのはがれたところを補修してやろうと思い立ち
ました。ちょっと手を入れれば、ずいぶんときれいになるんです。

スプレーを片手にシュッシュッとやっていました。
小さなところをやるだけだから、汚れる心配もないだろうと、服は着替えません
でした。

気持ちよく一仕事終え、部屋に戻ってきて椅子に座って、ふと目を落とした
ら....
あ、あ、あ!?

ズボン数カ所に塗料がべったり。
「拭き取れるか?」と思ったけれど、だめだ、こりゃ。
もう乾いてる。アクリル皮膜が完成している。

スプレーが周りにかからないように持っていたボール紙に塗料がたまり、それが
ズボンに触れてしまったのでした。

外出用の、いいズボンです。

うっ、うっ。これで、あちこち出かけるつもりだったんだ。
ああやっちまった、しでかした、と気分がズブズブ落ちていきます。


ま、待て!
これは、チャンスではないか。
生きるエネルギーがなんであるか、落ち込みというのがなんであるか、それを知
りたくて生きています。それを知るチャンスです。

落ち込みの実物がここにある。
実物で研究しないと、わかりっこないのです。
立派な心理学の本やら、偉い人の言葉やらでなんとかなるものなら、不幸な人な
どいないはずです。

気分そのものはぜったいに言葉ではなくて、実在しているこの感じそのものです。

それを言葉に置き換えて、分かった気になったりしないぞ、ぜったいに。
この気分が、どうなっていくのか見届けてやることにしました。

落ち込んだ気分にかられると、こんなことを言いたくなるものです。

「あああ、なんてことを」

「もっと気をつければよかったのに」

もっと単純明快に「バアカ」

もう少し建設的に言えば

「服を着替えてからやればいいよね」

「もうこれからはこんな失敗はしないぞ」

「さっさと気持ちを切り替えたほうがいいよ」

そんなことを言っても、この落ち込んだ気分がどうなるものでもありません。そ
れは、承知しているけれども、やっぱり言ってみる。
だって言ってみたいものじゃないですか、こういう場合。

言ってみました。言ってもどうにもならなかった。

というあたりを、よおく確認。
すべての言葉は、結局はキーキー、ヒーヒーとうめいているだけなんです。

でも、子どもに、こういう言葉を投げかけるのを、やっちゃうんですよね。
一番多いのが

「もっと気をつければいいのに」

当たり前のことを言うな、っつーに。

「原因はなんだったの? どうしたらいいの?」

イヤらしいよね。考える力がないとでも思ってるのかい。

とかなんとか考えること3分くらい。

こういう考えの正体は、「お、やってる、やってる」と見抜けたと思うんだけど
ねえ。
でも、どうもこの落ち込んだ気分そのものは残っています。

気分そのものは身体に属しているもので、回復するのは身体の力を使っている感
じがします。考えとは違う次元で、独自の動きをしています。
きょうは、ちょっと疲れている感じで、回復力が弱い。
ほんとうに回復したのは、横になってちょっと昼寝してからでした。

昼寝してから、思わぬ副産物がありまして、気分がすっきりしている感じがしま
す。
失敗した気持ちでのたうち回る自分に、慈しみが届いたってことかな、と思って
います。

みなさまの中の、失敗して騒いでいるインナーチャイルドちゃんたちにも、届き
ますように。


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古山明男

子どもは外界が怖いこと

古山です。

私が幼稚園児のときでした。

母が友人といっしょに、衣料品店に買い物に行きました。私も連れられていまし
た。店内はかなり混雑していました。

私は母のスカートを掴んで、母にくっついて店内を歩いていました。それなりに、
あれはなんだ、これはなんだと、好奇心を働かせていました。

そのとき、それが起こりました。
ふと気がついたとき、私は母のスカートを掴んでいたのではなく、母の友人のお
ばさんのスカートを掴んでいたのでした。
あれっ、違っていた。

それに気がついたときは、ほとんどパニックでした。

見知らぬ場所であっても、母に掴まっていれば、安心していられました。その安
心が突如吹っ飛んでしまって、見知らぬ人混みの中に投げ出されてしまったので
す。

母は世界の中心でした。
母がいれば、そこは住める世界です。母がいなければ、そこはたちまち見知らぬ
荒野です。

たぶん、大泣きしたのだと思います。
母がやってきて、手をとってくれました。またスカートにしがみつくことができ
ました。

子どもにとって外界は怖いところです。この怖さは、大人になると忘れてしまっ
ているものです。しかし、子どもにとって外界は、大人と同じに見えてはいませ
ん。だれでも、小さいときは勝手に家から遠くは離れないものですし、外出した
ときは親から離れないものです。それは躾ではなくて、見知らぬ世界は怖いから
です。

大人になってから、この怖さの感覚を知っているだけで、子どもを扱うのがずい
ぶんと楽になります。
「あ、そういうことね」とピンときやすくなるのです。


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古山明男

恐怖を慈しむ

古山です。

冬型の天気になってきたら、朝からスカッと青い空が広がっています。
そこを散歩するのって、気持ちがいいですね。

不登校のお子さんをお持ちの場合、子どもが学校に行かなくなった。将来がどう
なることかと、怖かったですねえ。世間からどうみられるかと怖かったですねえ。
それは怖くて当たり前です。私たちは、学校で育てられたのですから。

いいんです、怖くて。
いまあなたに必要なのは、「怖かったねえ」と言って背中を撫でてくれる人です。
なかなかそんな人がいないのですが、自分で自分の胸を撫でて「怖かったねえ」
と言うことはできます。それで、けっこう「ああ、怖かった」と思えます。
恐怖に駆られているうちは「ああ、怖かった」と思えないのです。

自分で事情を了解し、愛し慈しむことができること、それが大人であることのあ
りがたさです。子どもだと自分ではできません。

この「ああ怖かった」が感じられるようになると、子どもと波長が合うようにな
ります。不思議なものです。
そこから、別な系列の出来事が展開するようになります。

ああなれ、こうなれと思っているうちは、ラチがあかないです。

恐怖に取りつかれると、やることも考えることも自分中心になります。
さりとて、恐怖をなんとかしようと決意しても努力しても、どうにもならないも
のです。なんとかしようとすること自体が、恐怖にかられての行動です。

こういうことは、さらりと理解して、それ以上決意したり努力しないほうがいい
です。

「ああ、怖かった」と言って、青空でも見ているのがよろしいようです。
いまの季節ですと、椿や山茶花がけっこうきれいに咲いています。
イチョウの木にまだ残っている黄色い葉も風情があるものです。


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古山明男

「怖かったねえ」と撫でさすること

古山です。

現実的に役に立つ話をします。
いささかあてずっぽうではありますが、当たる確率は高いです。

子どもが教育上の問題を起こしていて、その理由がよくわからなかったら、恐怖
のためだと推定するのです。

そして、子どもの恐怖を和らげるよう、子どもの身体に働きかけます。情緒的、
芸術的な働きかけもいいです。

恐怖に捕らえられた子どもは、人の言うことが耳に入らなくなります。そして、
身の安全を確保するための、短絡的な行動をします。
これがすなわち学業不振であり、場をわきまえない行動なのです。

恐怖は身体に分布しています。(脳の対応する部分は、自律神経を司っている間
脳の部分ですが、脳に働きかける手段はありません)そこで、身体に働きかけま
す。

小さい子でしたら、抱っこしたり、ひざに乗せたりします。背中を撫でてもいい
し、じっと手を触れていてもいいです。

たぶん「怖かったねえ」と言いながら撫でさするのが効くでしょう。内容より、
語調です。

身体を温めるのもいいです。恐怖を感じているときは、交感神経が活性化してい
て身体が緊張し、血行が悪くなっています。

おいしいものを食べさせてもよい。

その他、落ち着かせることなら、なんでもいいです。安心できる状況を作ること
です。

これは時間がかかることです。効果が見えるのは、急性のことだったら数分~3
0分。。慢性のことだったら翌日以降になるくらいの覚悟をしたほうがいいです。
子どもは安心できるほどに、泣いたり、自分にこもったり、文句を言ったりする
からです。

年齢が上がってくると、ひざに乗せてしまうことはできません。こうすればいい、
という一律のものはありません。その子が安心できるようにという、ご家庭ごと
の状況に応じるしかありません。


言葉での言い聞かせやアドバイスは、逆効果です。本人の孤立感を強めます。

しかし大人たちは、「その程度のこと、我慢できるよ」とか「こう考えればいい
んだよ」とか「これが原因だよ。直したら」と言いたがります。これが、今の教
育(たぶん昔からの)の抱えている大問題です。公式しか知らないのです。何が
起こっているのか見えないうちに、答えだけ持っています。

大人たちは、恐怖を感じた時に、たいていは考えの世界に逃げ込みます。そして、
けっこうや人生哲学を持ち出したり、「~のせいだ」と原因を探したりします。
それが私たちの逃避であり、恐怖の現れ方なのです。
私たちは、恐怖があるときに恐怖としては感じず、立派なことを言ったり、なに
かのせいにしたりします。

でも、身体と心はこわばったままです。たいていは、身体の不調となって表れて
きます。

そういうわれわれ自身に慈しみを持つこと。
子どもに見つけたら、子どもを慈しむこと。
それが、すべてのはじまりです。

これがどういうことなのか、わかりやすいことがあります。

市役所に行ったとか、教育委員会に行ったとか、どうもここはお堅いところだし、
緊張してしまうなあ、と場所があるものです。そういうところに行ったとき、自
分の胸とかお腹とかをさすりながら「怖いねえ」と自分につぶやくのです。
そうすると、ほっとした感じと同時に、自分の体が怖くて緊張していたことがわ
かります。

この怖さを何十倍にもしたものが子どもたちを捕えている。そう推察すると、子
どもたちの行動がわかってきます。


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古山明男

心にうそがないこと

古山です。


昨日、長年森の中での自主保育をやってきた人と話をしていました。
自主保育のよいところは、子どもに『ありがとうは?』、『ごめんなさい
は?』を言わなくてすむことだ。あれは、相手の親に気を遣って言っているだけ
なのだ。親同士に了解があると、言わなくてすむ」
その大学生になる息子は、「小さなことでも人の役に立とうとしている。それが
自分の生きる力だ」という生き方を、誰に言われたからでもなく、していました。

先日、山梨のある森の幼稚園を見せてもらっていました。その園長さんは「ほん
とうに『ごめんなさい』と思っているのでなければ、謝らなくていいよ」と子ど
もたちに言っていました。朝の話し合いの会で、あるトラブルについて話し合っ
ていました。謝り言葉がでない子に対して他の子が「~ちゃんは、謝りたくない
んだよ」とかばっていました。

その森の幼稚園の子どもたちは、人の話を傾聴する力をもっていました。大勢の
話し合いでも一人ずつしゃべり、お互いによく聞いています。絵本を読んでもら
う時間には、子どもたちはしんしんと聞き入っていました。

いままで特に意識もしていませんでしたが、アロマスプーンのお遊び会でも、
「ありがとうは?」や「ごめんなさいは?」が出てくるのを聞いたことがありま
せん。

大人になると、「ありがとう」と「ごめんなさい」さえ言っていれば、人間ジャ
ングルでサバイバルできます。でも、それをサバイバル用品として使いこなせる
のは、少なくとも16,7歳くらいだと思います。

サバイバル用品を子どもに強要していると、自分の本当の心はなんであるかを、
見失いやすくなってしまうのです。


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古山明男