なんのための教育
古山です。
人間は、日常生活の中で、幸福に生きられます。それは、決して無為でぼんやり
と暮らすということではありません。活動的に生き生きと暮らせます。
自分を見ていても、いろんな方を見ていても、そうなんだもの。
私は、子どものための教材作りが好きです。これをやっていると、「こうすれば
わかるだろう。こうすればおもしろいだろう」というアイデアがつぎつぎと浮か
んできます。それを子どもに試してみて、目論見どおりのこともある。うまくい
かないこともある。実にドラマチックです。算数だったり、英語だったり、理科
だったり、教材に「これでいい」はありません。常に工夫改良の余地があります。
衣食住は、最低限の健康と快適さを確保するのに、いかに手抜きするかでやって
いますが、それはそれでおもしろいです。最近のヒットは、着ていない服を思い
切って捨てて、衣類の格納場所を一か所にまとめたこと。なにがどこにあるか、
見通しがつくようになりました。
庭の草を取ったり、植木や花をいじるのもおもしろいです。
おとなりのご主人は定年退職した銀行マンですが、庭と生け垣をそれはそれは見
事に手入れしています。これが楽しいんですね。
はす向かいのお宅のご主人も、いつも庭いじりしています。植木屋さんいらずで
す。
子どもたちは、おもしろいことを見つける本能があって、いつも何かしらに熱中
しています。
さらに職業があれば、他の人の役に立つ、という喜びを与えてくれます。
それなのに、「頑張る」「努力する」「いつも上を目指す」の教育が流行してい
ます。「あなたは本来無価値な人間です。努力して認められたときだけ幸福にな
れます」という人間観がはびこります。
これって、宗教家やら教師やら聖職者たちの自己防衛でしょう。
彼らが失職しないための欺瞞としか思えない。
それで、自己攻撃の葛藤で苦しむ人間が、たくさんできてしまっています。
古山明男