huruyama blog

学びや子育てやホームスクールなどなど 古山明男さんのコラムが大好きなので ご本人の許可を頂き紹介しています。

柔和で親切であることと自由

古山です。

暑いですね。

最近、子どもへの接し方が柔和で親切であることが大事であることを、実感しています。

「これは、こういうことなのだ」

「こういうことをしてはいけない」

「こうすべきだ」

このようなものが、脅しを伴わず、深い理解に基づいていることが大事なのです。
そうすると、自由に生きられます。できれば、芸術の香りもあるといい。

私は、20歳ごろから、頭の中の対話が止まらなくなりました。
最近になって、ある程度止まる時間を持てるようになりました。
そうしますと、自分の中で何が起こっているか、いろいろ観察できます。

いろんな攻撃的な条件反射があるんですね。
それは、身体の感覚としてあります。
自分が失敗すると、胸と腹のあたりに、攻撃性がとぐろを巻いています。
身をさいなむような後悔。
「こうすべきだったのに、ああしなければよかったのに」という考えが湧いてくる。
これは、おそらく学校の不寛容な文化で身につけたものです。
父と母は、そんなにきつい人間じゃなかった。

「自分ときたら、あんなことをやらかして、こんなことをやらかして...」と
次々と否定的な自分像を造る。
その逆に「こんなことをしたぼくってすごい」
これも、たぶん、学校文化で身につけました。

「あいつは、オレにこんなことをした」と特定の個人を恨む。
これは、母がいつもやっていたのが、伝わったみたい。

自分が価値のないものに感じられるとき、
「今の時代の根源的問題は~である」、「今の教育ときたら」と、
頭の中で演説をぶつ。
これは、大学生時代に身につけました。
70年の学生騒乱のときのことです。若者特有の顕示欲、競争心。

こういうものはみんな、ちょっとの刺激で、ガーガー騒ぎ始めるんです。
みんな、やむを得ず身につけたものです。

それらは理屈にあったことを言っているように見える。
でも、観察していると実はみんな繰り返しばかり。
プログラミングされたロボットと同じ。
頭の中の対話に、新しい発見などありはしない。
みんな条件反射的な反応なのです。
この条件反射的な反応が、自由を奪っているのです。

自由がないこと。それは、自分でもどうにもならない感情の混乱。
恨み、憎しみ、敵意などを処理できないこと。
考えてもしようがないとわかりきっているのに、同じ事を考え続けること。
こういうものは、外に原因がないだけに、始末に困ります。

その起源の多くは、子どもに対しての苛烈さ、脅し、競争、賞罰です。

子どもに対して柔和で親切であることが、どれほど大切なものであることか。

そうだとして、子どもに柔和で親切であったとして、
過去に起こってしまったことはどうするんですか、という疑問が出てきます。
ところが、とても重要なことがあります。
そういう条件反射は書き換えられるのです。

我々は、過去に決定されてはいない。自分の自由を獲得できます。

自分のなかのとぐろを巻いているものを感じ取ったとします。
いままでは、正体を見ることもなく反射的に「なんてことを」と責め立てる言葉が出ていました。
ところが、とぐろを巻くものの正体を感じ取り見つめているだけで、
それを柔和に見つめるということが、新しい条件付けになるのです。

いま、まさにやっていることが、これから繰り返されるパターンになっていくのです。
注意深く、愛情を込めているほど、定着しやすいです。
それは、命令で自分を動かすことではなくて、深く感じることなのです。

最近、自分で頭の中のおしゃべりが止まった状態になれるのは、
条件反射の書き換えが、進んでいるからなんです。
とくに、身体のいろんな言葉にならない感覚に対する注意深さです。
これが、条件反射の鎖をほどきます。

子どもに対して何か問題を感じても、過去にさかのぼる必要はありません。
いま、柔和に親切に接することです。
すると、子どもの中に、新しい筋道が生まれてきます。

誰にとっても、意識を持っていること自体がたいへんなプレゼントです。
意識そのものが光なのです。
これ、自分じゃわかりにくいけれど、誰かに意識を向けてもらうとよくわかります。
誰もが、光を持っています。べつに奥深くにではなくて、当たり前のいつも使っているものとして持っています。