huruyama blog

学びや子育てやホームスクールなどなど 古山明男さんのコラムが大好きなので ご本人の許可を頂き紹介しています。

心にうそがないこと

古山です。


昨日、長年森の中での自主保育をやってきた人と話をしていました。
自主保育のよいところは、子どもに『ありがとうは?』、『ごめんなさい
は?』を言わなくてすむことだ。あれは、相手の親に気を遣って言っているだけ
なのだ。親同士に了解があると、言わなくてすむ」
その大学生になる息子は、「小さなことでも人の役に立とうとしている。それが
自分の生きる力だ」という生き方を、誰に言われたからでもなく、していました。

先日、山梨のある森の幼稚園を見せてもらっていました。その園長さんは「ほん
とうに『ごめんなさい』と思っているのでなければ、謝らなくていいよ」と子ど
もたちに言っていました。朝の話し合いの会で、あるトラブルについて話し合っ
ていました。謝り言葉がでない子に対して他の子が「~ちゃんは、謝りたくない
んだよ」とかばっていました。

その森の幼稚園の子どもたちは、人の話を傾聴する力をもっていました。大勢の
話し合いでも一人ずつしゃべり、お互いによく聞いています。絵本を読んでもら
う時間には、子どもたちはしんしんと聞き入っていました。

いままで特に意識もしていませんでしたが、アロマスプーンのお遊び会でも、
「ありがとうは?」や「ごめんなさいは?」が出てくるのを聞いたことがありま
せん。

大人になると、「ありがとう」と「ごめんなさい」さえ言っていれば、人間ジャ
ングルでサバイバルできます。でも、それをサバイバル用品として使いこなせる
のは、少なくとも16,7歳くらいだと思います。

サバイバル用品を子どもに強要していると、自分の本当の心はなんであるかを、
見失いやすくなってしまうのです。


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古山明男

ワサビ

古山です。

 Nさんが、今の教育は、罰ゲームみたいなものを無理して身体に流し込んで
いるのではないか、と刺身とわさびを例に出していました。

 私も、今のふつうの教育は、生きるために大事なものを忘れてしまっていると
思います。それで子どもがつまらながるし、賞罰や競争を持ち込まないと教える
ことができなくなっています。

 先日、あるお母さんが5歳の子を亡くされ、そのお別れ会に出ていました。
 気丈な方で、半狂乱の状態は1日だけで抜けたとのことでした。会の手配、進
行を自分でなさっていました。

 そのお母さんが言っていました。生きる目的は愛です。能力とか収入とか地位
とかは手段にすぎない、と。そのことは、ただただ実感だったのだと思います。

 私も知っている子でした。子育ての会にお母さんが連れてきていました。
 なにかしら精神性を湛えていて「わかっちゃってる子」という印象でした。

 お母さんが語るところでは、愛情の塊のような子だった。幼稚園では、いわゆ
る多動気味で、「学校に行ってからが心配です」と言われていた。でも、この子
は、学校での訓練などとは無縁の世界に生き、学校での訓練にさらされる前に去
って行った。

 そういうタイプの魂たちがいます。
 すごく純粋で、とくに自分の人生課題を持っていません。人を、とくに親を幸
せにしたくてやってきます。
 自分の課題は持っていないから、立ち去りやすい。生きるのにもっとも必要な
ことは何であるかを伝えると、去って行く。

 そういう子どももいます。でも、大部分の子どもたちは、大人になることを予
定しています。
 子ども時代には、誰でも、生きるのにもっとも必要なものがなんであるかは知
っています。それを失わずに、大人としての知恵を身につけること、これが本当
の生きる力だと思います。

 幸せな子ども時代を持てると、社会の荒波の中でも生きる力が育ちます。


古山明男

教育のための原則

古山です。

子どもたちは、永遠の世界からやってくる知恵のようなものは持っていますが、
この世界のことはまだ知りません。この世界のことに関しては、大人たちの支援
が必要になっています。その支援が教育というものだと思います。

教育のための原則があるとしたら、こんなものだと思います。

 自分の知りたいこと、やってみたいことを大事にしてね。

 こんなおもしろいことあるよ。

 これ、便利だよ。

 これ、きれいだねえ。

 これは、自由にいじっていいよ。

 わからないことがあったら、聞いてね。

 しくじったときは助けるから、安心してね。


教育は、子どもたちに対して、課題を与えては達成を評価することではないと思
います。人類の文化遺産に子どもたちが出会って、それをどう使いこなし、どう
新たなものを付け加えていくかなのだと思います。

教育の中で、新しい見方、感じ方、使い方が生まれ、そこで育った人たちが新し
い社会を築いていくのだと思います。

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古山明男

学校信仰は終わる2

 日本の学校信仰は感情と感覚に直接に刷り込まれている何かだと思います。
学校からはずれると、ドーンと不安になります。
それは理屈を超えているから、信仰と呼びたくなります。

どこの国でも、その国特有の画一的なものがあるものです。同調しない者を爪弾
きにするものです。
日本は、宗教的な背景がないだけ、まだましだと思います。

あと、日本に教育の自由があれば、ずいぶん暮らしやすい国なのになあ、と思い
ます。教育の自由があれば、子どもの中の善なるものが開花してきます。


強制的な教育は、それ自体を再生産する性質があります。

人間、逃げようのないものを押しつけられると、それを批判しようとは思わなく
なるものです。ここはひどいと思いつつそこで生き延びるのは、あまりにストレ
スが大きいことです。どんなところでも、ここは忍耐を養ってくれる、ここで強
い人間になれる、と信じられれば生きていけます。

それと同じで、徴兵制みたいな義務教育があったから、多くの人が学校はいいも
のだと信じ込もうとしました。
これが、ほんとうにいいものだと思っているのと違うところは、脅迫的な信じ方
をしていることです。本当の感覚ではないから、学校への信仰を揺さぶられると、
とたんに不安になってしまうのです。

そういう脅迫的に信じている人たちが、四世代、五世代と続き、次世代を再生産
しました。日本が長らく選択肢のない強制教育を続けたこと自体が、学校信仰の
源だと思います。


私たちが、まず幸せに生きてしまうことだと思います。

幸せな人間たちがいるところに、人は自然に集まってきます。制度的なものは、
最後についてくるオマケみたいなものだと思います。

ほんとうに学校が楽しくて行っている子どもたちもけっこういます。そういう家
庭はそれでいいんです。

マナジリを決してホームスクールをやることもない。
学校よりマシなことができると思えば、やればいい。
まずいと思ったら、さっさと学校に戻ればいい。
学校は全国に張り巡らされ無料のセーフティ・ネットです。

ホームスクールは愛を基盤とした教育をするのに、他の教育機関より適していま
す。
家族の関係は、愛なしには成り立たないですから。

愛の基盤というのは、人間を人間としてあるがままに見ることです。
能力の問題ではなくて。

愛と慈しみなしに、子どもは育ちません。

古山明男

学校信仰は終わる


古山です。

学校には、いいところも、悪いところもあります。

しかし、これは学校が絶対に間違っていると思うことがあります。
学校が信仰の対象になっていて、学校なしでは人生が成り立たないように信じら
れていることです。
「来ないと人間がダメになる」
「将来食っていけないぞ」
とかいう脅しが蔓延しているのです。

全員がとは言いませんが、学校に行っているほうも、行かなくなっとときの恐ろ
しさで行っている。
授業がわからなくても、いじめられても、行き続けてる。


そんな教育機関がほかにありますか?
幼稚園が「うちに来ないと、人間がダメになります」
なんていいますか。
塾が、「うちにこないと落ちこぼれる」っていいますか?
大学が「うちに来れないヤツは、社会の落伍者だ」といいますか?

そんなことを言ったら、総スカンを食います。

学校に来ない子がいると、他の生徒たちが口をそろえたように言います。
「ずるい」

学校がほんとうにいいところだったら、そんなことを言いますか。学校が本当に
いいところだったら、「もったいない」と言うはずでしょう。ほんとうは、みん
な休みたいんです。

元は、制度構成が悪い。
学校就学を強制して、罰金までもうけた。内容がどんなに悪くても、それは不問
に付されるか、「善処いたします」で済まされる。
先生たちは公務員だから、「来なくていい」とは口が裂けても言えない。「個人
的には~だと思うのですが、...」と口を濁します。

でも先生たちは教育者だから、「法律だから」とは言えない。なんだかんだと教
育的理由をつけます。それが「学校に来ないと~になる」のオンパレードです。
データもない、実証性もない、脅しです。

公立学校は、どんな子でも来させなければならないから、脅しに訴えるしかなく
なっているんです。

そういう学校に、親の世代も、祖父母の世代もみんな行っているから、みんな学
校に行かないときの恐怖を植え付けられる。


カルトに特有の考え方があります。
落伍者、脱退者をものすごく避難するのです。
学校も脱落者を非難します。学校はカルトの一種に成り下がっているのではない
ですか。

そうじゃない、脱落者にいかに手を伸ばせるかが、教育というものでしょう。


学校に行く行かないは、恐怖からではなく、ちゃんと教育的見地から考えましょ
う。本人の意思も大事、親の意思も大事。

「学校に行かせないと」と心配してあれこれ言う、親戚、知人、ご近所は、刷り
込まれた恐怖にかられているだけです。

国際人権条約は、保護者が公立学校以外の教育機関を選ぶ自由を保障しています。


公立学校は選択肢の一つです。いろんな教育があり得ます。
成熟した社会では、それが当たり前になると思います。

今年2月に施行された「教育機会確保法」はうまく使えば、学校以外の教育を保
護することができます。

 

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古山明男

子供に教えると親子げんかになる理由 2

古山です。

家庭教育の特徴は、お互いに距離が近くて、感情のこもったやりとりをしている
ことです。それが悪いということではありません。人間のもっとも教育されなけ
ればならないところに、手が届くということでもあります。


親が子どもに教えて、学校と同じようにはいかないことに、「考えさせる」こと
があります。

学校用のテキストを利用しながら、発問をし、考えて答えを出させようとしてい
ると、うまくいかないことが多いのです。教室内ですと、子どもがたくさんいま
すから、誰かが考えついて何かをいいます。ところが、親子でやっていると、子
どもから何も出てこなくて、そこでストップしてしまうことが多いのです。

親子でやっているのだったら、自分で考案させようとせずに、親がどんどんやっ
て見せたほうがいい。
たとえば、繰り上がりのある足し算をやっているとしたら、繰り上がった数を小
さく書いておくのを「ここに書いておくと、忘れないでしょ」と言ってやってみ
せます。

子どもはすぐ忘れたり、大きな字で書いたりします。そのとき「あ、そこちゃん
と書いて」と言葉だけで注意しないほうがいい。「こうだよ」、とまたやってみ
せるのです。言葉だけで伝えようとしない、やってみせて真似させる。これが、
人に何かさせたいときの、基本です。

やっているうちに、子どもは、「ああ、そういうことか」と掴みますし、そこか
ら「じゃあ、こういうふうにしたらどう」と考えることも多いものです。

やってみせて真似させることは、職場で新人に仕事を教えるときにも、大事な基
本になります。言葉だけで指示していると、どういうことなのか、なかなか伝わ
りません。あとで「教えたのに! なにやってんのよ!」になります。

「さあ、そこでどうするんだったけね」は禁句です。プレッシャーをかけている
だけです。

古山

子どもに教えると親子げんかになる理由

 

古山です。

親が家庭で子どもに勉強を教えると、まあ、7割方は親子喧嘩で終わるものです。

それが相場ですから、親子喧嘩になったことのある方は、どうかご安心ください。
親子のことですから、そう後にまで持ち越すことはありません。
しょっちゅうブーブーキャーキャー言っているかと思うと、しんねりむっつりな
ついているのが親子というものです。

これにははっきりした理由があります。

親は、学校で教えられたやり方しか知りませんから、学校の教え方に近いやり方
で教えます。あれは、他人同士の、多人数相手のやり方です。それをそのまま、
親しい人間同士のマンツーマン対話に持ち込もうとすると、いろいろ不都合が出
てくるのです。

学校型ですと、できるだけ考えさせて、子どもに自分で答えを出させようとしま
す。
親が子どもに教えると親子喧嘩になってしまう理由、いくつかあるのですが、一
つずつ書きます。

子どもは、親に答えを誘導されるのが嫌いです。

教室で教師がやっているなら当たり前のこととして受け入れるのですが、家庭では嫌がります。
ちょっとでも親に誘導されている匂いがすると、子どもはたちまち、話題をそらしたり、他のこ
とをし始めたりするものです。

誘導するのを、夫婦の場合に置き換えると、わかりやすいと思います。

夫がなにやら情報を得たのか、誰かに吹き込まれたのか、「上手な皿の洗い方」
という本を買ってきた。「これを読んでおきなさい」と妻に渡す。

数日後、夫が台所に来て、洗い物をしているのを見ている。そして「あ、そのや
り方、ちょっとね。本に書いてあったろう」と言う。
妻は、イヤな感じがしてフテくされる。

夫「さ、そういうときは、次にどうするんだったっけね」
妻「知らないわよ」
夫「本は読んだんだろう」
妻 うなずく。(本当は読んでない)
夫「よおく考えてごらん。考えればわかるよ」
妻 いい加減頭にきて、洗う手を止める。
夫「僕が答えをいってもだめだ。きみが自分で考えないと」
妻、もう、やってられないという気になって、多少は、合わせてやる。

まあ、なんとかやり過ごした。
と思ったら、最後に夫が「はい、よくできました」と言った。これはもう、皿が
飛んだ。

ちょっと大げさに書きましたけど、まあ、こんなようなことです。


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古山明男