huruyama blog

学びや子育てやホームスクールなどなど 古山明男さんのコラムが大好きなので ご本人の許可を頂き紹介しています。

NHKスペシャル 発達障害

古山です

21日夜のNHKスペシャルが「発達障害 ~解明される未知の世界」を放送して
いました。
そうか、そうか、と見ていました。自分の中で断片的だった知識がつながった感
じがします。

ほんとうに、解明が始まっているのだと思います。当事者の声として、身体障害
者に対するのと同様な配慮を求めていたのが、画期的です。

番組は、すでに大人になった当事者による説明を中心にして、発達障害の人たち
がどう生きているのかを取り上げていました。なるほど、ということが多かった。

発達障害の人は感覚が過敏な人がかなりいます。
物音と人の声をうまくよりわけられない。
視覚的に、まぶしくてしょうがない。
不快な臭いがたまらない。
などです。

発達障害の人が、人と話すのはたいへんな労苦。
言葉を聞き取る。その意味を理解する。対応を考える。それら一つ一つが、全力
をあげてやっとできるようなこと。


以下は私の考えです。

発達障害は、外界適応のための感覚調整がうまくいっていことが一次障害

・そのために生じる、恐怖、孤立、無力感などが二次障害

シュタイナー教育的な説明なら、エーテル体が肉体に入り込めない、あるいは
エーテル体が弱い状態。

脳科学のほうからも、有効な説明が出てくるだろう。

・おそらく、感覚の発達と調整の問題として取り組むと、改善される。心地よい
環境、愛念をもった人たち、よい香り、気持ちのよい触覚、静かで芸術的な音楽、
などなど。

・訓練して頑張らせる方向は、裏目に出る。

・こだわりの強さは、おそらく恐怖から身を守るための二次障害。

・「普通」に育てようがないので、とてつもない才能も現れやすい。


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古山明男

なぜ子どもはアニメなら入り込むのか

古山です。

「僕と魔法の言葉たち」という映画を見ました。素晴らしかったです。
自閉症の子どもが、周りの人たちとのコミュニケーションの通路を築いていくド
キュメンタリー映画です。
自分のブログで取り上げました。
http://ameblo.jp/afrym/entry-12274823327.html

この映画を見ていて思ったのが、大人たちが、子どもを諸能力の集まりとして
見ていては、子どもを教育するのが難しくなってしまうだろう、ということです。
この映画の主人公の場合、言語能力がないと思われていたら、ディズニーのア
ニメの世界に入りこんでいて、そこで生きていました。

14歳までの子どもの意識は、キャラクターとストーリーでできています。特に
9歳以前は、それだけでできていると言っていいくらいです。
だから、子どもたちは絵本やマンガなら喜んで見ますし、アニメなら見ます。

この「キャラクターとストーリーによる世界の把握」は、大人になっても、毎
晩の夢を見るときの言語として、いつも流れています。

子どもを、身体運動能力、言語能力、図形認識能力等々に分解して捉え、その
一つ一つを訓練すれば豊かな人生を送れるだろうと考えること。
各能力を子どもにでもできる簡単なものにし、各教科に割り振り、訓練するこ
と。それは、一見親切なようであって、子どもにとっては、食事を与えられずに
栄養サプリメントだけ与えられるようなものです。
学校を、諸能力一つ一つを分解して伸ばす場として構成することは、工場を単
純作業の流れ作業として構成するのに似ていて、産業社会に特有の人間観に基づ
いていたのだと思います。

子どもは、もっともっと、活動本位ですし、物事をストーリーで見ています。

能力主義を抜け出した教育が必要を創りたいと思っています。
今作っている「おっちゃんのさんすう教室」がその一つです。
文科省指導要領による算数・数学は、多くの子どもにとっては消化・吸収が難
しいものです。吸収率が非常に悪いです。下痢を起こす子もいます。
キャラクターとストーリーの中に算数を埋め込み、いろんな形で重層的に現れ
てくる中から、本質を掴み取っていく。そういうものを作って、おいしく召し上
がっていただければと思っています。

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古山明男

算数のシリーズ

古山です。

「おっちゃんの算数教室」シリーズを、また作ります。
今のシリーズは、私が体調が悪いときに作ったもので、自分では不満です。

「勉強しないといけないから」ではなくて、「おもしろいから」見てもらえるも
のを目指します。

今の、文科省指導要領の体系が間違っているんだ、とほんとうに思っています。
あれじゃあ、算数が難行苦行になる子が続出します。そのことを批判だけしてい
ても空しいから、「こうするんだ」というのを作りたい。

あのテロップや音楽、カメラアングルなどを作ってくれた、テレビ番組制作会社
のプロが、疲れたから休職するということになりました。「じゃあ、また僕の仕
事を手伝ってくれないか」とお願いしました。

算数・数学は深いところで、道徳性とつながっています。尊重しなければならな
い法則があります。やっていいことといけないことがあります。

それだけに、単なる丸覚えや、褒めたり叱ったりでやらせることにしたくない。

ところが、算数ときたら、子どもがどのように学ぶか、まるでめちゃくちゃなの
です。

教えなくても、日常生活の中でわかちゃってる子もいます。
いくら教えてもわからない子もいます。
学ぶのに適した年齢も、まったくまちまちです。早い子は4,5歳、
遅い子は10~11歳です。

市販の教材でおすすめできるものはそこそこあるのですが、みんな向き不向きが
あります。万人向けというのがありません。
自分で作りたくなりました。


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古山明男

ホームスクールって

 

古山です。

MLに新しく参加された方に、ホームスクールってこんなものです、とメールを
書いたのですが、誰に読んでもらってもいいものなので、こちらにも送ります。

 


学校は、子どもに無理をさせるところです。無味乾燥さに耐えさせる訓練をして、
教育をしたと思い込んでいるのです。とんでもない。そんなことは、大人になっ
てからでいいのです。子どもには子どもの、かけがえのない子ども時代がありま
す。

もちろん、学校のすべてが悪いわけではありません。楽しいときもあります。い
い先生もいます。友達もできやすいです。

しかし、学校に行かなければまともな人間に育たない、という考えは、徴兵制の
ような義務教育を生き延びるしかなかった人たちのための、おしゃぶり飴のよう
なものです。あれはムダではなかった、どうしても必要なものだったと信じてい
たいのです。


学校は、子どもが喜んで行っているならそれでいいのですが、無理させてまで行
かせるところではないと思います。
さらに、ご家庭が子どもの理解が深くて、学校以上のことができるならば、学校
を離れてよいのです。
この学校以上というのは、授業をする能力のことではなく、子どもと気持ちが通
じていて楽しく暮らせることです。

教えなければ子どもは何もできるようにならない、というのも、学校の神話です。
言われたことに従わせては評定するだけの学校教育を長く受けさせていると、そ
うなってしまう、というだけのことです。

子どもは、好奇心が盛んでなんでもやってみたいものです。独善的なものや悪い
ことは直感的にわかるものです。

子どものために確保してやらなければならないは、まず安心です。
帰る港があり、いつでも補給できるとわかっているから、冒険の旅に出て行くこ
とができるのです。
「子どもの安心」を心がけているだけで、たいていのことはうまく回っていきま
す。

 


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古山明男

サバイバルモード

 

古山です。

「サバイバルモード」という概念に出会い、なるほど、と納得しています。
生物が緊張、警戒している状態のことです。
脳の基本的生存を司っている部分で起こり、考えだけでコントロールするのは困
難です。

「ある生物がサバイバルモードにはまり込むと、目に見えない相手を撃退するこ
とに精力が注がれ、養育や世話、愛のための余裕がなくなってしまうわけだ。

私たち人間にとって、それはこういうことを意味する。すなわち、心が目に見え
ない攻撃から自らを防御しているかぎり、私たちの最も緊密な絆も脅かされると
ともに、想像したり、計画を立てたり、遊んだり、学んだり、他者の欲求に注意
を払ったりする能力も損なわれてしまうのだ」

(『身体はトラウマを記録する』ベッセル・ヴァン・デア・コーク p126)

急性症状を示す不登校の子どもたちは、この状態だと思われます。

この『身体はトラウマを記録する』によれば、修復には、基本的に3つの方法が
あります。(大人の場合)

1他者と話し、つながり、トラウマの記憶を処理しながら、自己に何が起こって
いるか知って理解する。

2不適切な警告反応を抑制する薬を服用したり、脳が情報をまとめる方法を変え
るような他の技術を利用したりする。

3トラウマに起因する無力感や憤激、虚脱状態とは相容れないと身体の芯から感
じられる体験をする。


このどれが最適かは、やってみないとわからない。
著者が治療した人の大半は、一つの方法だけではうまくいかなかった。

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古山明男

 

 

親が支持する

 

古山です。

教育の大きな根幹として、シュタイナーの言っているこは、傾聴に値すると思い
ます。

7歳までは、模倣することで育つ。

7~14、5歳は、尊敬できる大人の言うことを聞いて育つ。

14,5歳~21歳は、愛することを学ぶ。


では、7~14、5歳期のホームスクールだったら?

「おまえがやってみたいことをやり、美しいと感じること、正しいと感じること
を大事にしなさい。助けが必要なときはいつでも言いなさい。」
と、子どもに語りかけていることです。

これを、何も言わずにただ自由にさせるだけだと、この年齢は何かしら足りない
ものが生じます。
「学校行きたくないの。じゃ、好きにしなさい」ではないのです。


親の言うことは子どもにとって、自明の正しさを持っているものです。

そういう自明の正しさを持っている親が身近にいて、支持してくれているという
こと自体が、子どもの力を引き出しています。

 

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古山明男

お役所仕事の教育

 

古山です。

いまの義務教育は、教育というよりお役所仕事です。出席や卒業の形式を整える
ことが至上目的になってしまっています。

教育することが卒業証書を得ることにすりかわった。
学ぶことが、教室に座っていることにすりかわった。

憲法の言う「義務教育」は、保護者が子どもに教育を受けさせる義務です。
そこには、学校に行けとは書いてない。

ところが、現実には、ものすごく狭い教育方法しかしない学校が一種類だけあっ
て、そこに行かせろという下位の法律があります。

そこに無理に行かせるから、子どもが嫌がる、落ちこぼれる、行かなくなる。
そういう子どもがたくさん現れます。

本の学校は、そのことに学びませんでした。自己改革をしませんでした。何が
教育であるかを考え直さなかった。「どうやって来させるか」だけ考えていまし
た。

学校が自己改革できるシステムができていない。訓示を垂れ、標語を掲げること
しかできない。
誰もが「個人的はおかしいと思うのですが」というしかなかった。

結局「保健室もあります」というレベルでしか手を打てななかった。


学校は出席至上主義です。学校で何も学んでいなくても、学校でいじめられてい
ても、出席しなければいけないのです。

教室にいられないなら、保健室に。

学校の中に入れないなら、せめて校門まで。

毎日が無理なら、週1回でも。

「来させる習慣を作る」
「机に向かう習慣を作る」

ほんとうに、そういうことに意味があるのですか?
ロボットを作りましょうと言っているだけです。


教育は難しくないです。

子どもには、好奇心があるし、ともだちがほしいし、活動意欲があります。

家庭での生活を充実させることのなかに、すべての学びがこもっています。


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古山明男