huruyama blog

学びや子育てやホームスクールなどなど 古山明男さんのコラムが大好きなので ご本人の許可を頂き紹介しています。

お役所仕事の教育

 

古山です。

いまの義務教育は、教育というよりお役所仕事です。出席や卒業の形式を整える
ことが至上目的になってしまっています。

教育することが卒業証書を得ることにすりかわった。
学ぶことが、教室に座っていることにすりかわった。

憲法の言う「義務教育」は、保護者が子どもに教育を受けさせる義務です。
そこには、学校に行けとは書いてない。

ところが、現実には、ものすごく狭い教育方法しかしない学校が一種類だけあっ
て、そこに行かせろという下位の法律があります。

そこに無理に行かせるから、子どもが嫌がる、落ちこぼれる、行かなくなる。
そういう子どもがたくさん現れます。

本の学校は、そのことに学びませんでした。自己改革をしませんでした。何が
教育であるかを考え直さなかった。「どうやって来させるか」だけ考えていまし
た。

学校が自己改革できるシステムができていない。訓示を垂れ、標語を掲げること
しかできない。
誰もが「個人的はおかしいと思うのですが」というしかなかった。

結局「保健室もあります」というレベルでしか手を打てななかった。


学校は出席至上主義です。学校で何も学んでいなくても、学校でいじめられてい
ても、出席しなければいけないのです。

教室にいられないなら、保健室に。

学校の中に入れないなら、せめて校門まで。

毎日が無理なら、週1回でも。

「来させる習慣を作る」
「机に向かう習慣を作る」

ほんとうに、そういうことに意味があるのですか?
ロボットを作りましょうと言っているだけです。


教育は難しくないです。

子どもには、好奇心があるし、ともだちがほしいし、活動意欲があります。

家庭での生活を充実させることのなかに、すべての学びがこもっています。


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古山明男

 

才能教育とはまた違った次元で

 


それぞれの人間に持って生まれたいろいろな持ち味がある、その持ち味を生かす
ために生まれてきている、ということを感じます。

これは、単にいろんな才能がある、という意味ではありません。
よく「お勉強はさっぱりだけど、スポーツが、絵を描くのが....」と言い方
がされる子どもたちがいます。
そういう目で見てあげるといい子どもたちも確かにいます。でも、技能に着目し
ていく見方には、しょせんは狭いところがあります。食っていくための才能、評
価されるための才能、というところしか見ていない感じなのです。現在の「学歴、
資格を身につけ、能力を伸ばして社会に出る」という教育観の中での見方だと思
います。

「この人、どうも癒やし系だ」という人がときどきいます。
どうということのない人だけど、いっしょに居て邪魔にならない。落ち着く。そ
の人と居ると悩み事が気にならない。そんな感じなのです。
こういう人たちは、「こうでなければならない」が内面にないのです。起こるこ
とをハートで受け止める力を持っている。だから人が癒やされる。
こういう人たちは、世の宝みたいな人だと思います。
しかし、このタイプは、おおむね現在の教育体系には合わないことが多いのです。
もし、こういう人たちが「自分の目標を持って、頑張る」ような生き方をしたら、
大事なものが壊れてしまっていたと思います。「わたしは、これこれができるの
です」と誇らしく見せることができるようなものは持っていないことが多い。

それと似ているのですが、『太古の知恵』系の人たちがいるように思います。
これは、東洋では「老子」とか、「悟りを開いた人」みたいなモデルが知られて
いるので、いささかは理解されやすいとは思います。
このタイプは、知識、技能の習得を「小賢しいこと」と感じ取る直感を持ってい
て、人生知だけに焦点を当てているような感じ。このタイプのすごいところは、
他人に「おまえはバカだ」と言われると、ほんとうに「自分はバカだ」と信じ込
むこと。

そういう人生知系の人たちと違い、才能系の人は、比較的現在の価値観でも測り
やすいのですが、その中にもいろいろいます。ものすごく才能に恵まれているが、
いったんうまくいかなくなると、自分も他人も切り裂いていくようなタイプ。

 

本当に才能らしい才能に恵まれた人たちは、子どもであっても、他人からの指示、
アドバイスが邪魔になってしまうことが多い。そこまで見抜いて援助できる教師
は少ない。

中国の三国志に出てくるような「治世の奸、乱世の雄」というようなタイプもい
ます。学校などバカにしていることが多い。

芸術系の人たちが最も必要としているのは、知識・技能ではなくて、自分に流れ
込んでくる様々な印象や感情の暴風の中で、いかに生き抜くかのアート(技術)
です。

その他、たくさん、たくさん。

現在の義務教育の理念は、「人はいろいろです。だから、それは尊重したまま、
最低限のことだけ身につけさせましょう」のはずです。そうであってほしい。
ところが、実際は、プレッシャーをかけ、与えられたノルマを達成させる生き方
を叩き込んでいる。学校の拘束時間は長いし、休日や家庭でまでの努力を要求す
る。だもので、その人の持ち味が見えなくなる

もちろん、そういう教育でも、よいところだけ取り込んでいける人たちもいます。
でも、そういう人たちは少数だと思います。

合わない人たちもたくさんいます。学校時代は、ただぼんやりと過ごした、とい
う人たちの多くには、もっとましな教育があり得たと思います。
発達障害や、学習障害と思われている人たちに、実は違うタイプの知性、違うタ
イプの生き方であるものが多いように思います。

人が学ばなくなるのは、恐怖によってです。訓練不足ではありません。

恐怖に訴えないこと、「これは美しい、これは立派だ」というようなことを子ど
もと分かち合おうとすること。そのくらいのことをしているだけで、その子がど
ういうものであるか、見えてくるものです。


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古山明男

 

子供の飛びおり

 

古山です


子どもは木登りが好きです。木といわず、塀でも建物でも、よく登ります。

その逆の、飛び降りも好きです。
これも、子どもたちがよくやります。私もよくやりました。階段を何段飛び降り
ることができるか、だんだん高いところからやって、「もうこれ以上は、怖い」
というところまでやります。

なぜだろう? なにがおもしろいのだろう?

木登りは、技術と判断を磨いていくおもしろさがあります。でも飛び降りは、さ
ほど技術はない。

これは、決断力の自己訓練じゃないかと思います。「怖い、でもやってみよう」
という決断力と、「あぶない。やめよう」という決断力。どちらも、生きていく
のにほんとうに必要になるものです。

もう一つ、「身を任せる」感覚を磨くこと。
なにかをやって、ここまでは自分でコントロールが効く、でもここから先は身を
任せるしかない、というところがあります。就職もそう、結婚もそう、事業を始
めるのもそう。
人生に締めくくりをつけたくて悟ってしまうのもそう、愛の中に溶けてしまうの
もそう。

ここに、「受け止めてもらえる」感覚が加わっていると、勇気が湧きます。
高さはどんなに低くてもいいから、腕を広げて「ここに飛び降りてごらん」とや
ってもらえるのは、素晴らしいことです。私は、父にやってもらった覚えがあり
ます。
人の腕の中に飛び降りて受け止めてもらえたときの気持ちよさ。
どんな恋愛より気持ちがいいから。

私は、押し入れの中のふとんを引っ張り出して下に敷いて、押し入れの上の段か
ら飛び降りるのが好きでした。ふわんと受け止められている。いいですねえ。受
け止めるのを他人がやってくれなきゃ、自分でやるさ。


飛び降りには、一瞬で視点が変わるというおもしろさもあります。木登りのほう
は、だんだん高くなって視野が開けていくのが嬉しい。飛び降りは、視野が一瞬
で切り変わるのが嬉しいのです。見えるものすべてがばっと動き、気がつくと違
った視点になっている。
身体ごと視点を切り替えるおもしろさは、後年になって思想、哲学で視点を切り
替えるおもしろさと、共通したものがあると思います。


大人の立場からすると、子どもの木登りと飛び降りを支援するのは、ものすごく
高度なものが必要になります。
大事なのは、子どもが意欲を持つことと、危険を自己評価し自己管理できること
です。結果ができたできないは、さほど重要ではない。

「あぶない、あぶない」とやめさせるのが最悪。
でも、園や学校という立場にいると、万が一のときに責任問題になるから、やめ
させざるを得ない。

「あぶないから気をつけなさい」もよくない。集中力をそぎ緊張させるだけです。

褒めたり励ましたりするのは、ウケねらいで、危ないことをさせる怖れがありま
す。このように、木に登ってしまった子どもへの声のかけ方は、高度な判断が必
要になります。

木登りや飛び降りは、基本的には自己教育に属するもので、課題を与え達成させ
評価する、というサイクルには入れにくいものなのだと思います。

 


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古山明男

おいしさ、おもしろさ

 

古山です。

私は20代のころ、断食に興味を持って、よくやっていました。最初の2,3日が
過ぎると、実に気持ちがいい。何も食べないでいると、身体がすっきりするし、
頭も明晰になります。食べ物を消化すること自体が、身体に負担になっているの
ですね。

生きるエネルギーを探し求めているときでした。「これだ!」と思いました。

ところがです。それで健康になれたかというと、そうではありませんでした。
食べないでいるときは気持ちがいいのだけれど、そのあと、どうもムチャ食いし
てしまう。それが、止めようもない。

子どものときだと、甘いものを食べ過ぎると頭が痛くなりました。ところが、そ
の断食行のあとは、いくら甘い物を食べても平気になってしまいました。食欲に
まかせていると、腹は出るし、コレステロールの数値に如実に反映します。罪悪
感を感じながら、お菓子食いをやめられない。それで、一生懸命に「身体に良い
もの」を実践する。そうすると、ときどきお菓子のバカ食いをする。

何がおいしいか、何を食べたいかの本能的な部分が、壊れてしまったのだと思い
ます。

いろいろな「何を食べると身体に何かいいか」を、現代科学的なものから、異端
派のものまでいろいろ試してみました。いろいろな食べ物理論は、それぞれ意味
を持っていると思いました。しかし、「これが身体によいのだ」と『頭で食べ
る』ことをやっているかぎり、いいことがあっても長続きしないし、なにかしら
反動や欠陥が出るものなのだ、ということも学びました。


同じようなことが、学びとおもしろさの関係にあると思います。
多くの大人は、健康な「おもしろい」の感覚が損なわれています。「~せねば」
に頼らないと生きていけない状態になっています。

明らかに、教育のやり方のせいです。「~せねば」を強調しすぎた教育をしたの
です。

子どもの「おもしろい」の感覚は健全です。それを中心にして、育ててあげれば
いい。それが、一番楽だし、効率もいいです。
個人差は非常にありまして、6,7歳でも「この子に教えるのは失礼にあたる」
というような子もいますし、ツバメの雛がピーピーと口を開けて待っているよう
に教えてほしい子もいます。

何をどう教えなければならないかの、絶対的な基準はありません。生活している
のだから、生活に学ぶのが一番いいです。
文科省の指導要領は、「大人になったときにこれが必要だから小さいときから教
える」から発していて、子どもの発達の研究が浅いです。

子どもが、生き生きとした感じを漂わせているかどうかが、目をつけていなけれ
ばいけないところでして、「何しているか」は、さほど重要ではありません。
教えなくてもいいけど、教える場合は、「ご褒美で釣ったり、罰に訴えたりしな
い範囲で」ということだと思います。

これは、子どもに教育をするときの大切なモラルだと思います。大人の社会は、
ご褒美で釣り、罰に訴えて成り立っています。だからこそ、子どものときは、賞
罰に訴えない教育が必要なのです。賞罰に訴えないという節度がないと、健全な
「おもしろい」感覚が損なわれます。


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古山明男

 

最近のこと

 

古山です。

火曜日の有栖川宮公園で、小さな子どもたちを引率したグループとよく出会いま
した。この中に、子どもと遊んでいるときの、間合いの取り方、身のこなしの上
手おな兄さんがいるから、話を聞いたら大学4年生でした。昔から、このグルー
プのお手伝いをしているとのこと。
こういうような人が、子どもの遊びグループにいてくれるといいだよね。
ほんとに何かが伝わっていきます。

幼児には、優しいことが正義なんだ。
小学生くらいの子には、おもしろいことが正義なんだ。


昨日の千葉市でやったホームスクールの対談イベント、20人以上の人が集まって
くれました。
私はレジュメを用意しないで行きました。こういうとき「これとこれをしゃべろ
う」と構想を立て、スライドを用意していくと、一方通行の授業みたいになって
しまう。おおまかなことは考えるけど、あとは成り行き任せ、吉度さんといっし
ょに、ずいぶんとおもしろいことをしゃべれました。アロマスプーンのことも宣
伝しておきました。

こういうイベントである程度数が集まると、「それが当たり前である世界」がで
きます。来てくださった方たち、ありがとうございました。

 

2月の末に、「教育機会確保法」の基本指針作りのパブリックコメント募集に応
募するのに、数日を費やしていました。

教育の分野は、憲法、国際条約、教育基本法までは、スジがいい。
でも「学校教育法」というのが、「とにかく学校にこないとダメ」の法律です。
日本が昔ながらの教育の殻から出られなくなってしまった、元凶です。

「教育機会確保法」は、この「学校教育法」に、ヒビくらいは入れています。
対象を「不登校児童生徒」に絞っている。それを解釈や運営で広げられる余地が
あるか、その研究でした。

今回は、「民間の意見を反映させる」というのが、法律の条文にも入っているか
ら、ある程度は言う甲斐のあるパブコメでした。

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古山明男

 

教育って

 

古山です。

覚え込ませようとしない。

達成させようとしない。

よいこと、素晴らしいことを子どもと分かち合う。

困ったこと、悲しいことをいっしょにくぐり抜ける。

そうすると、子どもも変わる、大人も変わる。

教育って、そういうことなんだと思います。


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古山明男

不登校とホームスクール


古山です。

おもしろい記事がありました。紹介します。

不登校とホームスクール」
http://www.es-inc.jp/library/mailnews/2016/libnews_id008690.html


(一部を抜粋します)

目的は「子どもを学校に行かせること」ではなく、「子どもによい教育を受けさ
せ、次の社会を創り出し、支えられる人を育てること」ではないのでしょうか?

 AI(人工知能)やIoT(モノのインターネット)などによって、働き方や人間
の役割・有用性が激変する時代になっているにもかかわらず、とにかく「学校教
育とは全員がそろって受けるものだ」「とにかく学校に行かなくてはならない」
という、前世紀のメンタルモデル(思い込み)に縛られていては、個々人の幸せも、
社会としてのレジリエンス(しなやかな強さ)もおぼつかないでしょう。

決まった就業時間に全員がそろって仕事をするのではなく、もっとしなやかでも
っと多様な働き方が必要だし、そのほうが効率的・効果的だと「働き方改革」が
進んでいるように、もっとしなやかでもっと多様な学び方が必要ではないでしょ
うか。

 

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古山明男